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SETさん
SET
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無駄な文章が一切ないように思える稀有な小説
 激動の時代のボヘミア(チェコスロバキア)で出会った、複数の女性と関係を持たずには居られないトマーシュと、彼の性分について十分に理解しながらも苦しみから逃れることのできないテレザの物語を中心に、そこから敷衍させたさまざまな考察が繰り広げられていく長編小説です。ツイッターのフォロワーさんが引用した文章が気になって、いちばん有名なこれを手に取ってみました。

 クンデラは初めて読みましたが、一文一文に驚くほど意味がこめられていて、まずその文章の精緻さに驚かされました。彼の論理的でありながら詩的でもある文体にかかれば、生活上の猥雑な一場面も、思想上の重大な構成要素に様変わりします。翻訳でも伝わってくるその美しさは、鑑賞するという言葉がぴったり合いそうです。

 しかし、ひとたび読者が生活に戻れば、彼の文章によって重要な意味を与えられ思想の構成要因として成り立っていたはずのものたちは、生活の猥雑さに埋もれ、機能を喪います。どうしたって、喪ってしまいます。私たちは、犬を撫でたその一瞬に、かわいいと思うことはできても、犬への無私の愛を自覚しながら動物の円環的生き方と人間の直線的生き方について思いを巡らせることはできないからです。自分が抜き差しならない状況に追い込まれて即座に判断を求められたその一瞬に、自分に笑顔を向けてくる人間を二種類に分類しそれについて考察を並べ立ててから判断するような能力を与えられてはいないからです。

 言い換えると、彼の文章に触れているときだけは、生活上の無秩序な断片が重要な機能を喪うことはありません。思想の構成要因は思想の構成要因として、隠喩は隠喩として機能します。彼の文は、卑近な生活がまるで別物になるかのような陶酔を、読者に提供します。
 生活上においては、先述した理由から、機能していません。機能できません。
 それでも機能させようとするのなら、生活上の無秩序な断片たちに意味を与えるのはクンデラではなく、個々人です。個々人はそれぞれの偏見に沿って生活上の無秩序な断片を構成要因として組み上げストーリー化し、そしてその断片がどんな意味を持つのか理解をします。そうして再構成されたものには「キッチュ」が紛れ込みます。



 この「キッチュ」という単語にまつわるもろもろがこの本特有の考え方のひとつだと感じたので、これから先はこのキッチュについて書いていきます。うまくまとめられるかわかりませんが、お付き合いください。

 著者は主に第6部でキッチュについて語ります。
 その第6部は、絶大な権力を誇った(神のような存在であった)スターリンの、その息子が捕虜となり、収容所で「糞」の処理についてイギリス人といさかいになったことに言及して始まります。
 本来であればどのような人間も排泄します。それは誰であれ、そうです。けれど「神の息子」が「糞」のことで裁かれるようなことが起こってしまうとすれば、「糞」と隣接したその「神の息子」の存在は、耐えがたいほどに軽くなってしまう。「神の息子」は、その軽さに耐えられなくなって、自ら有刺鉄線に突進してしまいました。
 現代のたいていの文化には「糞」は恥、「糞」は見せてはいけないものだとする審美的理想が存在します。その審美的理想によれば、「糞」は視野から排除されるべきものです。(この「糞」はさまざまな言葉に置き換えられます)

 この小説の中では、こうした本来は存在するものについて、あたかも存在しないかのようにふるまう審美的理想が、キッチュと名付けられています。
 そして、キッチュという単語が頻繁に使われるうちに、キッチュが人間生活の本質的に許容できないものすべてを視野から排除するということが、うやむやにされてしまったのである(288ページ)。
 その「視野から排除する」という意味での「キッチュ」が、この小説におけるこの単語の主な役割だと(私は)判断しました。

 これらが本文では明晰な文章で展開されていくのですが、私はクンデラのように上手く語れません。まだ分かりづらいと思うので、本文を引用して、キッチュがどのように扱われているかを紹介します。
 第二の涙が言う。「なんて美しいんだろう、芝生のうえを走っているちびっ子たちを見て、全人類とともに感動するのは!」
 この第二の涙だけがキッチュをキッチュたらしめるのである。
 すべての人間たちの友愛は、ただキッチュの上にしか基づきえないだろう。(291ページ)

 このようなキッチュの存在を政治家は良く知っている、という文章があいだに挟まり、下の文章へ。

 いくつもの流派が共存し、それぞれの影響力がたがいに相殺されたり、限定されたりする社会においては、ひとはまだ多少なりともキッチュの審問を逃れられる。個人はみずからの独創性を守り、芸術家は予想外の作品を創ることもできる。しかし、唯一の政治組織が全権を握っているところでは、ひとはいきなり全体主義的キッチュの王国にいることになるのだ。
 私が全体主義的と言うのは、そこではキッチュに害を及ぼすものがいっさい生活から追放されるからである。(291~292ページ)


 そういった抑圧してくるものに反発して批判する側にも、もちろんキッチュは紛れ込みます。
 登場人物のひとりであるサビナは、ある政治団体の展覧会で、自分を紹介する文章を目にします。
なかには、殉教者伝や聖人伝にも似た彼女の伝記がある。彼女は耐えしのび、不正と闘い、苦しめられた祖国を捨てざるをえなくなったが、闘いを続けているのだと。そしてこの文章の最後の一節が、「彼女は自由のために、その絵画によって闘っている」であった。(294~295ページ)
 彼女は抗議します。
「わたしの敵は共産主義じゃないの。敵はキッチュなのよ!」(295ページ)
 けれど、周囲には理解してもらえません。
 <大行進>という考えは、あらゆる時代とあらゆる傾向の左翼の人々を一体にする政治的キッチュである。<大行進>、それは前方へのあの素晴らしい歩み、友愛、平等、正義、幸福に向かい、あらゆる障害にもかかわらず、もっと遠くに進み行く歩みである。なぜなら、行進が<大行進>になるためには、障害がなければならないから。(298ページ)

 こうして何かを書いたり考えたりしている間は、キッチュから離れ、第三極でいることができるかもしれません。いくらでも理想を連ねることのできる文章上では、可能です。しかし私たちは、文章上の存在でいることはできません。どんなに酷い二択の選択肢しかなくとも、選択をします。するしかありません。そこにキッチュが紛れ込みます。

 著者はキッチュについて批判的に書きつつ、キッチュは人間の条件の一部だとも言います。
 キッチュが存在することを責めることはできない。しかし、誰もかれもがキッチュに絡め取られている可能性があるという自覚をもつ必要があると思います。
 どのような素晴らしい思想信条を持ち、どのような素晴らしい政治姿勢をとっていようと、人は自らの見たくないものを排除するものです。その自覚を失っていく積み重ねが、自らを「全体主義的キッチュの王国」に追いやっていくことになるのではないでしょうか。
 さまざまな考え方がお互いにせめぎ合っている現在、私たちはまだ、全体主義的キッチュの審問から逃れられています。
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SET
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『存在の耐えられない軽さ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-3)』のカテゴリ

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