shawjinnさん
レビュアー:
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タコの神経系から人間の集合知を考える。
タコの神経系は分散型であり、中央集権型の脊椎動物の神経系とは全く異なる構造をしている。
神経細胞の集合体である神経節が身体中に散在し、互いにつながっている。神経節は、地球の緯線や経線のように身体を縦橫に走る神経線維によって互いに接続され、すべてが他のすべてと組になって機能する。
また、タコのもつ神経細胞の多くは腕に集中している。腕にある神経細胞の数は、中央脳にある神経細胞の数の六倍になる。そして、腕にも感覚器と、身体の制御機能が備わっている。感覚は触覚だけではない。化学物質の存在を感知するための嗅覚、味覚もある。腕は身体から外科的に切除されたとしても、単独で動くことができる。腕を伸ばしてものをつかむという動作は、腕だけでも可能である。
このような分散型神経系の構造は、個体の脳のネットワークによって構成される新たな神経系、すなわち人間の集合知と似ているようにも思える。人間の集合知が中央集権型でないのは、ほぼ自明であろう。だから、タコの神経系を考えることは、人間の集合知を考える上での重要なヒントになりそうである。
タコの神経系は、各部分ごとに機能する場合と、中央脳の司令のもとで中央集権的に機能する場合との、混合のようなかたちで働いているようである。タコがそういう動物だとすると、その主観的経験は果たしてどのようなものなのであろうか。
タコの中央脳にとって、腕はそれぞれが自己の一部だといえる。目的をもって動かし、外界の事物の操作に使うことができるからである。しかし、身体全体を集中制御したい中央脳からみれば、腕はどれもが部分的には他者ということになる。自分が司令していない動きを勝手にすることもあるからだ。
ここで視点を転じる。人間の神経系による主観的経験のなかで、タコの神経系と似ていると思われる面を探してみる。たとえば、そばにある物体に向かって手を伸ばしている途中で、その物体の位置や大きさが急に変わった場合、とっさに対応を変化させることができる。反応時間は0.1秒よりも短い。これほど速いのは、無意識の変化だからである。本人が変化に気づかなくても、手は勝手に動き方を変えているのである。
手を伸ばすという決定はトップダウン式にくだされるのだが、本人の意思とは無関係に動きを微調整している。タコと人間の違いは、タコの場合、その微調整の部分がずっと大きいということである。いや、腕の持つ能力が大きすぎるので、もはや微調整とよぶにはふさわしくないのだけれども。
なお、人間の手の動作の微調整は脳が行っているが、タコの腕の動作は腕自身が考えている。そこは全く違う。これは、あくまでも、タコの中央脳の主観的経験をイメージするための材料である。タコの中央脳は、自分の腕の動きを傍観者のようにみていることもあるのではないか。
タコにも、一応、中央脳という指揮者はいる。だが、指揮者が指揮するのはオーケストラではなく、ジャズのプレーヤーたちであるともいえるかもしれない。一人ひとりのプレーヤーは、指揮者(バンドリーダー)の言うことを聞かないわけではないが、即興演奏することも多い。指揮者からはおおまかで全般的な司令は受けるが、演奏の細かい部分をどうするかは、プレーヤー自身が判断する。指揮者なしで演奏することも多いだろう。
人間の集合知も、オーケストラでいくか、ジャズでいくか、臨機応変に対応することが肝心なのではないだろうか。どのフォーメーションを選択するかは、集合知による予測の予測誤差が最小となることを目指して決めるのが良さそうである。そうすれば、エントロピーも局所的に最小化できるであろうし。とはいえ、言うは易く行うは難しである。人間の個体の脳のネットワークは、ようやく高度化し始めたところなので、これからが本番であろう。
神経細胞の集合体である神経節が身体中に散在し、互いにつながっている。神経節は、地球の緯線や経線のように身体を縦橫に走る神経線維によって互いに接続され、すべてが他のすべてと組になって機能する。
また、タコのもつ神経細胞の多くは腕に集中している。腕にある神経細胞の数は、中央脳にある神経細胞の数の六倍になる。そして、腕にも感覚器と、身体の制御機能が備わっている。感覚は触覚だけではない。化学物質の存在を感知するための嗅覚、味覚もある。腕は身体から外科的に切除されたとしても、単独で動くことができる。腕を伸ばしてものをつかむという動作は、腕だけでも可能である。
このような分散型神経系の構造は、個体の脳のネットワークによって構成される新たな神経系、すなわち人間の集合知と似ているようにも思える。人間の集合知が中央集権型でないのは、ほぼ自明であろう。だから、タコの神経系を考えることは、人間の集合知を考える上での重要なヒントになりそうである。
タコの神経系は、各部分ごとに機能する場合と、中央脳の司令のもとで中央集権的に機能する場合との、混合のようなかたちで働いているようである。タコがそういう動物だとすると、その主観的経験は果たしてどのようなものなのであろうか。
タコの中央脳にとって、腕はそれぞれが自己の一部だといえる。目的をもって動かし、外界の事物の操作に使うことができるからである。しかし、身体全体を集中制御したい中央脳からみれば、腕はどれもが部分的には他者ということになる。自分が司令していない動きを勝手にすることもあるからだ。
ここで視点を転じる。人間の神経系による主観的経験のなかで、タコの神経系と似ていると思われる面を探してみる。たとえば、そばにある物体に向かって手を伸ばしている途中で、その物体の位置や大きさが急に変わった場合、とっさに対応を変化させることができる。反応時間は0.1秒よりも短い。これほど速いのは、無意識の変化だからである。本人が変化に気づかなくても、手は勝手に動き方を変えているのである。
手を伸ばすという決定はトップダウン式にくだされるのだが、本人の意思とは無関係に動きを微調整している。タコと人間の違いは、タコの場合、その微調整の部分がずっと大きいということである。いや、腕の持つ能力が大きすぎるので、もはや微調整とよぶにはふさわしくないのだけれども。
なお、人間の手の動作の微調整は脳が行っているが、タコの腕の動作は腕自身が考えている。そこは全く違う。これは、あくまでも、タコの中央脳の主観的経験をイメージするための材料である。タコの中央脳は、自分の腕の動きを傍観者のようにみていることもあるのではないか。
タコにも、一応、中央脳という指揮者はいる。だが、指揮者が指揮するのはオーケストラではなく、ジャズのプレーヤーたちであるともいえるかもしれない。一人ひとりのプレーヤーは、指揮者(バンドリーダー)の言うことを聞かないわけではないが、即興演奏することも多い。指揮者からはおおまかで全般的な司令は受けるが、演奏の細かい部分をどうするかは、プレーヤー自身が判断する。指揮者なしで演奏することも多いだろう。
人間の集合知も、オーケストラでいくか、ジャズでいくか、臨機応変に対応することが肝心なのではないだろうか。どのフォーメーションを選択するかは、集合知による予測の予測誤差が最小となることを目指して決めるのが良さそうである。そうすれば、エントロピーも局所的に最小化できるであろうし。とはいえ、言うは易く行うは難しである。人間の個体の脳のネットワークは、ようやく高度化し始めたところなので、これからが本番であろう。
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- 出版社:みすず書房
- ページ数:312
- ISBN:9784622087571
- 発売日:2018年11月17日
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