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hackerさん
hacker
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本書のベースになった津軽旅行が行われたのは1944年5月から6月にかけてで、作品が完成したのは7月末、出版は11月でした。やはり、この時代背景は重要だと思います。
本書も、かもめ通信さん主催の「#やりなおし世界文学 読書会」で挙げられていた一冊です。初読みでした。最初にお断りしておきますが、私は太宰治のファンというわけではありません。若い頃読んだことはあるものの、どうもあまり好きになれませんでした。実は、亀井勝一郎による本書解説に次のような記述があり、これがその理由だったのかもしれないと思い当たりました。

「太宰文学の裡に、旧家に生まれたものの宿命を見ることが大切である。旧家は魔性の古沼のようなもので、代々の恨みを宿した奇怪に捩れた生命が生まれる可能性を持つ。そこには格式の高い、潔癖な倫理性と、同時にそれに反撥するような淫蕩の血と、この二つのものが摩擦し合いながら流れている。(中略)太宰は津軽の古い豪家に生まれたが、あの暗い憂鬱の翳は旧家の翳だと云ってもよかろう。そこには生得的とも云える自己否定が生まれた。換言すれば、自分の『家』から、いかに逃亡するか、更に自分自身から、いかに逃亡するか。つまり自分の背負わされた運命への抵抗とそのための傷痕が、彼の文学に一筋の道として通っている」

この文のすべてとは言いませんが、「自分の『家』から、いかにして逃亡するか」というのは、私自身の生涯のテーマでもあったわけで、若い頃は逆にそれゆえに太宰の生き様や死に様に感情的に反撥を感じたのでしょう。現在の私は、既にそのテーマを卒業している状態なので、当時とは違い、もう少し冷静に本書を読むことを出来たと思います。

また、私自身は東京生まれの東京育ちですが、ルーツは秋田県能代市で、五能線の名前から分かるように、太宰の故郷である津軽とは縁のある土地柄なので、そういうことからも、どこか馴染みのある人間や風物が登場することが、本書に親近感を感じさせたのかもしれません。例えば、津軽人のみならず秋田県人の好物であったハタハタの記述が出てきますが、能代で生まれ亡くなった母方の祖母が「昔は、海が覆いつくされるぐらいハタハタが来た」と話していたのをよく覚えています。


さて、Wikipediaによると、本書は、太宰治が19944年5月12日から6月5日にかけて行った津軽への旅行をベースにした作品で、完成は7月末とのことです。これらの日付は出典が明記してありますから、信用していいでしょう。出版は同年の11月となります。実は、この創作の時期は、非常に重要ではないかと思います。理由は、太平洋戦争における勝敗が誰の目にも明らかになったサイパン島の戦いが6月15日から7月9日まで、そして日本海軍が航空戦を行う能力を完全に喪失したマリアナ沖海戦が6月19日から20日まで行われたからです。

あちこちで書いていますが、サイパン島が陥落すると、日本全土がB29の爆撃圏内に入ることは、昭和天皇も含む軍部は、たまたま捕虜にしたB29のテストパイロットからの情報で知っていました。それゆえ、サイパン島を絶対国防圏としていたわけですが、B29云々の情報はおそらく知らされていなかったでしょうが、国民もサイパン島の陥落が由々しき事態だということは理解していたはずです。旅行そのものは、サイパンの戦いの前でしたが、作品の完成時には、太宰も日本の戦況がかんばしくないことは分かっていたと思います。ただ、B29による日本空爆が本格化したのは、出版とほぼ同時期ですから、その具体的な影響までは知らないで、本書は書かれたということになります。


本書は、表面的には、多少の悪口なり不平不満が書かれてはいるものの、基本的には津軽の人と文化への讃歌のように読めます。しかし、書かれた時代を考えると、そんな悠長なことを言っている場合ではなかったはずです。ただ、それは表面上は表れません。例えば、運動会を巡る次のような描写があります。

「運動場の周囲だけでは場所が足らなくなったと見えて、運動場を見下ろせる小高い丘の上にまで筵(むしろ)で一つ一つきちんとかこんだ小屋を立て、そうしていまはお昼の休憩時間らしく、その百軒の小さい家のお座敷に、それぞれの家族が重箱をひろげ、大人は酒を飲み、子供と女は、ごはんを食べながら、大陽気で語り笑っているのである。日本は、ありがたい国だと、つくづく思った。たしかに、日出ずる国だと思った。国運を賭しての大戦争のさいちゅうでも、本州の北端の寒村で、このように明るい不思議な大宴会が催されて居る」

補足しておくと、私も福島での田舎暮らしを始めてから実感していますが、東北の田舎町では自給自足の発想が根付いていて、食料に関する限りは、この時代でもあまり不便はなかったのだろうと思います。薪ストーブや飲料用の井戸も普通の存在だったでしょうし、太宰が住んでいた東京の三鷹よりは、生活環境的にはずっと恵まれていたと思います。この文では、そこには触れておらず、ヨイショ風の後半になっていますが、これは検閲を意識してのことかもしれません。

そうは言っても、戦争の影響がないわけではありません。作者はこういう発言をしています。

「僕たちの子供の頃には、馬耕に限らず、荷車を挽かせるのでも何でも、全部、馬で、牛を使役するという事は、ほとんど無かったんですがね。僕なんか、はじめて東京に行った時、牛が荷車を挽いているのを見て、奇怪に感じた程です」

これに対し、話し相手は、こう説明します。

「そうでしょう。馬はめっきり少なくなりました。たいてい、出征したのです。それから、牛は育養するのに手数がかからないという関係もあるでしょうね。でも、仕事の能率では、牛は馬の半分、いや、もっともっと駄目かもしれません」

また、別のところでは、政治について、こう述べています。

「とかく芸術家の政治談は、怪我のもとである。(中略)一個もの貧乏文士に過ぎない私は、観覧山の桜の花や、また津軽の友人たちの愛情に就いてだけ語っているほうが、どうやら無難なようである」

政治には、戦争の状況が含まれるのは、言うまでもありません。

もう一つ気づいたことは、何度も「故郷を訪れるのは、これが最後」という趣旨のことが述べられている点です。本書は、太宰にとって「実の母親」に等しい実家の女中だった、たけに約30年ぶりに会いに行くエピソードで終わりを迎えるのですが、これとて、太平洋戦争時に、致命傷を負った兵士たちの大半が「天皇陛下万歳!」などと叫ばず、「おかあさ~ん」と言ったり、妻の名を言ったりしながら死んで行ったという数々の証言を思い起こさせます。

こう考えてくると、戦況の悪化ということは、太宰は理解しており、それが自分の死に直結する可能性についても、考えていたのではないかと私は思います。解説では「昭和14年(1939年)東京都三鷹に居を定めてから、心身ともに健康になり、多くの代表作を発表した。20年の終戦まで、この七年間は太宰文学を確立した大切な時期」と述べられていますが、本書には、その良き時代の終焉の予感が感じられるのです。実際、Wikipediaでは、その後のことがこう述べられています。

「3月10日、東京大空襲に遭い、甲府にある美知子の実家に疎開。7月6日から7日にかけての甲府空襲で石原家は全焼。津軽の津島家へ疎開。終戦を迎えた」

そして、1948年6月13日、39歳の誕生日目前で太宰は亡くなります。


本書全体を通しての印象となると、その後の太宰の人生を知っているだけに、どうしてもバイアスがかかる部分があるのは仕方ないかもしれませんが、私には、とても単純な故郷讃美とは思えないのです。彼が脱出を試みた「家」はそのまま残っていたわけですし、「家」の存続の象徴である実兄との関係は、表面上はさり気ない付き合いをしていても「ひびのはいった茶碗は、どう仕様も無い。どうしたって、もとのとおりにはならない。津軽人は特に、心のひびを忘れない種族である」と語っている通りなのです。

結局のところ、本書も「あの暗い憂鬱の翳」に覆われている作品だと思います。
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hacker
hacker さん本が好き!1級(書評数:2281 件)

「本職」は、本というより映画です。

本を読んでいても、映画好きの視点から、内容を見ていることが多いようです。

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この書評へのコメント

  1. かもめ通信2024-05-13 05:41

    hackerさんの「津軽」評が読めてうれしい!に1票!

  2. hacker2024-05-13 09:39

    かもめ通信さん、ありがとうございます。なんだか照れます。これからも、リクエスト(?)があれば、気に入る、入らないは別として、お応えします。

  3. マーブル2024-05-15 21:49

    自分も読み直したくなった、というよりも「読み直さなければ」と思ったところです。
    時代背景を含めた読み方を思いもよりませんでした。感服です。

  4. No Image

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