ぽんきちさん
レビュアー:
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あの頃、上野の地下道にあふれかえっていた子どもたちはどこへ行ってしまったのか?
1945年3月10日未明。東京大空襲が人々を襲った。家を焼かれ、家族とはぐれ、多くの子どもたちが街をさまよい歩いた。やがて敗戦。親を失い、浮浪児となった子どもたちは、上野駅に集まり、懸命に生き延びようとした。
これはそうした子どもたちの記録である。
著者は発展途上国のスラム街でストリートチルドレンを追っていたこともあり、戦後、浮浪児と呼ばれた子どもたちに関心を持っていた。
浮浪児たちはどういった経緯で例えば上野を住処とし、どのように生きる糧を得て、そしてどのようにその場を立ち去っていったのか。
伝手を辿り、100人近い証人から、5年の歳月を掛けて聞き取り、まとめたのが本書になる。雑誌『新潮45』の連載に加筆したものである。
太平洋戦争で生まれた戦争孤児は約12万人、浮浪児の数は推定3万5千人に上る。
浮浪児の実態についてはほとんど記録が残っておらず、まるで歴史から抹殺されたかのように、その暮らしぶりや行方については知られていなかった。
著者は丹念に証言を集めているが、戦後70年という歳月が経ったことを思えば、ほとんどぎりぎりの作業であっただろう。まずはその労力に敬意を表したい。
子どもたちが上野に集まったのにはいくつか理由がある。空襲直後に焼け残った主要駅は上野くらいしかなかったこと。地下道では雨風をよけることができ、たき火をする人もいて暖かかったこと。子どもに限らず、多くの人々が集まっていたため、何やかにやと食べ物や仕事にありつくことが可能であったこと。
不衛生ではあり、危険もあったが、子どもたちにとっては人の情けを受けることもあり、長じて「懐かしい」と感じるような場所ともなっていた。
上野駅の近くには、戦後、ヤミ市ができる。現在のアメ横の原型である。子どもたちはそうした店の手伝いをしたり、よそで仕入れた新聞を売ったり、靴磨きをしたりと、「したたか」に「がむしゃら」に生きていく。
もちろん、裏稼業に染まっていく子もいる。女の子(そもそも浮浪児の中で占める割合は低かったが)の場合は、手っ取り早く稼げる売春に手を染めた子も少なくない。
時には警察の「狩り込み」が行われ、浮浪児たちは根こそぎ連れて行かれて施設に送り込まれる。ところがこうした施設の多くは、虐待があったり、満足な食事もなく働かされたりと子どもたちにとっては決して暮らしやすい場所ではなかった。施設にうんざりして逃亡し、また上野に舞い戻った子も少なくない。
浮浪児たちの暮らしぶりに加え、アメ横成立の歴史や、当時の上野の森のいかがわしさ、また児童福祉法の施行、「篤志家」と言えるような善意の市民による養護施設の設立なども興味深い。
騒々しくて、不衛生で、猥雑で、しかしどこか懐かしい上野の喧噪。
戦後が遠くなるにつれ、上野から浮浪児たちの姿は消えてゆく。地下道から人々が追い出され、ヤミ市が取り締まられ、パンパンたちが検挙されるとともに、浮浪児たちは居場所を失った。
表の歴史にはほとんど記録も残されず、あるいは感化院に送られ、あるいは孤児院に入所し、あるいは個人的伝手で商店等に住み込みで働くようになる。
大人にとっても苛酷であっただろう終戦後の日々。親や家族の後ろ盾をなくした子どもたちは、懸命にがむしゃらに生きるしかなかった。ときには人の人情に助けられ、ときには人の汚さを直視し、ときには狡猾さも持ち、ときには仲間の子どもたちと助け合い。
努力して会社を興した者もいる。結婚して、配偶者にも過去を知らせぬままの者もいる。殺人犯となってしまった者もいる。闇に消え、どこにいったかわからぬ者もいる。
巻末の子どもたちの食事風景には胸を打たれる。
ひと言で総括できる本ではないが、こうした子どもたちがいたことを忘れてはならない、と思う。
これはそうした子どもたちの記録である。
著者は発展途上国のスラム街でストリートチルドレンを追っていたこともあり、戦後、浮浪児と呼ばれた子どもたちに関心を持っていた。
浮浪児たちはどういった経緯で例えば上野を住処とし、どのように生きる糧を得て、そしてどのようにその場を立ち去っていったのか。
伝手を辿り、100人近い証人から、5年の歳月を掛けて聞き取り、まとめたのが本書になる。雑誌『新潮45』の連載に加筆したものである。
太平洋戦争で生まれた戦争孤児は約12万人、浮浪児の数は推定3万5千人に上る。
浮浪児の実態についてはほとんど記録が残っておらず、まるで歴史から抹殺されたかのように、その暮らしぶりや行方については知られていなかった。
著者は丹念に証言を集めているが、戦後70年という歳月が経ったことを思えば、ほとんどぎりぎりの作業であっただろう。まずはその労力に敬意を表したい。
子どもたちが上野に集まったのにはいくつか理由がある。空襲直後に焼け残った主要駅は上野くらいしかなかったこと。地下道では雨風をよけることができ、たき火をする人もいて暖かかったこと。子どもに限らず、多くの人々が集まっていたため、何やかにやと食べ物や仕事にありつくことが可能であったこと。
不衛生ではあり、危険もあったが、子どもたちにとっては人の情けを受けることもあり、長じて「懐かしい」と感じるような場所ともなっていた。
上野駅の近くには、戦後、ヤミ市ができる。現在のアメ横の原型である。子どもたちはそうした店の手伝いをしたり、よそで仕入れた新聞を売ったり、靴磨きをしたりと、「したたか」に「がむしゃら」に生きていく。
もちろん、裏稼業に染まっていく子もいる。女の子(そもそも浮浪児の中で占める割合は低かったが)の場合は、手っ取り早く稼げる売春に手を染めた子も少なくない。
時には警察の「狩り込み」が行われ、浮浪児たちは根こそぎ連れて行かれて施設に送り込まれる。ところがこうした施設の多くは、虐待があったり、満足な食事もなく働かされたりと子どもたちにとっては決して暮らしやすい場所ではなかった。施設にうんざりして逃亡し、また上野に舞い戻った子も少なくない。
浮浪児たちの暮らしぶりに加え、アメ横成立の歴史や、当時の上野の森のいかがわしさ、また児童福祉法の施行、「篤志家」と言えるような善意の市民による養護施設の設立なども興味深い。
騒々しくて、不衛生で、猥雑で、しかしどこか懐かしい上野の喧噪。
戦後が遠くなるにつれ、上野から浮浪児たちの姿は消えてゆく。地下道から人々が追い出され、ヤミ市が取り締まられ、パンパンたちが検挙されるとともに、浮浪児たちは居場所を失った。
表の歴史にはほとんど記録も残されず、あるいは感化院に送られ、あるいは孤児院に入所し、あるいは個人的伝手で商店等に住み込みで働くようになる。
大人にとっても苛酷であっただろう終戦後の日々。親や家族の後ろ盾をなくした子どもたちは、懸命にがむしゃらに生きるしかなかった。ときには人の人情に助けられ、ときには人の汚さを直視し、ときには狡猾さも持ち、ときには仲間の子どもたちと助け合い。
努力して会社を興した者もいる。結婚して、配偶者にも過去を知らせぬままの者もいる。殺人犯となってしまった者もいる。闇に消え、どこにいったかわからぬ者もいる。
巻末の子どもたちの食事風景には胸を打たれる。
ひと言で総括できる本ではないが、こうした子どもたちがいたことを忘れてはならない、と思う。
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分子生物学・生化学周辺の実務翻訳をしています。
本の大海を漂流中。
日々是好日。どんな本との出会いも素敵だ。
あちらこちらとつまみ食いの読書ですが、点が線に、線が面になっていくといいなと思っています。
「実感」を求めて読書しているように思います。
赤柴♀(もも)は3代目。
この夏、有精卵からヒヨコ4羽を孵化させました。そろそろ大雛かな。♂x2、♀x2。ニワトリは割と人に懐くものらしいですが、今のところ、懐く気配はありませんw
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- 出版社:新潮社
- ページ数:286
- ISBN:9784103054559
- 発売日:2014年08月12日
- 価格:1620円
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