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なるかみ音海
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今も変わらぬ魅力を放つカフカの短編集。特に『流刑地にて』について。
 僕らは日々、小さな挫折や失望を繰り返している。物事が思いどおりにゆく人など世の中にはほんのわずかだろう。
 小さいレベルで言えば惣菜の餃子に醤油がついていなかったり、アイスを冷蔵庫にしまい忘れてどろどろになってしまったり、カールの生産が東日本で中止になったり。思わずなんだよー!と言ってしまうような事柄。ただ、こういうのは音楽でも聴いたりお笑いを見たりすればすぐに忘れてしまえる。
 不肖僕の場合ならば、仕事が忙しすぎて、なおかつ安月給でいやだとか、一生懸命書いた長編小説を賞に応募したけれども、箸にも棒にもかからないとか、ブログを始めてみたものの、閲覧数があんまり伸びないとか・・・小さな失望というならば、かように枚挙に暇はない。今までで最もショックを受けたことといえば、学生時代、とある資格を申請しに都庁へ行ったとき「単位が足りない」と言われ、まるで足元がぱかっと開いてそのまま『カリオストロの城』のルパンのように奈落の底へ落ちていくような感覚を味わったことだ。
 もちろんこんなことはもっと厄介な問題を抱えている人から見れば取るに足りないことであるし、僕もそれは重々承知している。確かに上記のような出来事については多少ヘコむことはあっても、それなりに日々を過ごすことができるからだ。
 それを考えると、僕は本当に打ちひしがれるほど辛い思いや落ち込んだことはないのかもしれない。もちろん大学入試に落ちたとか、女の子にフられたとか、今思い出しても心の奥底にチクチクとささることもあるけれども、やっぱり頑張って生きてきた。

 つまり僕は「絶望=死に至る病」に犯されたことはない。そんな僕でも「絶望」とはこういうことをいうのだろうか、と考えさせられる小説がこの『カフカ短編集』に収められた『流刑地にて』という一編である。

 物語はヨーロッパの某国の植民地、おそらくアフリカと思われる土地で展開する。もちろんカフカはそれを限定しておらず、時代も曖昧である。

 学術調査にその国を訪れた旅行者が「将校」からある機械について説明を受けるところからこの小説は始まる。その機械は死刑執行用のもので、将校はそれに並々ならぬ愛着を抱いている。そうして今まさにその機械が一人の死刑囚の刑を執行しようとしているのだ。
 とにかくカフカは微に入り際に入り、この殺人機械の描写に字数を費やす。よくもまあ、こんな機械を想像したものだと思う。先の司令官の発明品であるというその機械は長方形の3つの部分で構成されており、下の部分は《ベッド》上の部分は《製図屋》、真ん中の部分は《馬鍬(まぐわ)》とそれぞれあだ名がついている。大きさ、高さとも丁度天涯のついたベッドのような形ではあるが、このベッドは鋼鉄製である。
 囚人は《ベッド》に裸で腹ばいに縛り付けられる。そして《製図屋》の歯車の動きとともに《まぐわ》に取り付けられたガラスの針が12時間かけて囚人の体に判決を刻み込むというのだ。最後にはまぐわが囚人をグサッと刺し貫き、そこで刑は終了する。

 旅行家が驚いたことには、判決を受ける当人はその判決内容を知らないまま執行を受け、その刻まれた文字により自らの罪を知るというのだ。旅行家は判決の手続きに疑問を抱くが、流刑地のやり方に口を出すべきではないと判断し、そのまま将校の説明を聞き続ける。将校はそんな旅行家の心の内を知らず、得意げに先の司令官が作成したという図面を披露するが、そこにはもつれ合った線がびっしりと紙面を埋めているだけで、解読不能なのだった。(話はそれるが、ここで僕が思い出すのはデビッド・クローネンバーグが1991年に撮った『裸のランチ』という映画だ。ウィリアム・バロウズの特殊な傑作を原作に持つこの映画、クライマックスで主人公の妻がノートにびっしりと「全ては失われた」と書いていた。ここにも何とも言えない絶望的な空気が漂っている。)

 いよいよ刑を執行する段になり、機械に据え付けられた囚人は嘔吐し、機械を汚してしまう。それを見た将校は「司令官のやつめ!」と現在の司令官に悪態をつき、いかに前司令官が素晴らしかったかということと、この前時代的で、非人道的な処刑機械の存続を旅行家が現司令官に訴えて欲しいと大演説を披露する。将校はこの旅行家にそれなりの影響力があると見ているのだ。しかし。

 「お断りします」とひとこと旅行家は言っただけだった

 将校はその言葉を受け、囚人を放免する。そしてとある判読不能の文字が書かれた紙(おそらくオルゴールの楽譜のように、一定の動きを機械にさせるパンチ)を旅行家に見せる。旅行家にその字は判読できなかったが、将校は《正義をなせ》と書いてあると伝える。これから彼がする行い自体が、彼にとっての正義なのかもしれない。機械の存続が絶望的になった今、彼の取るべき行動はひとつしかない。それは旅行者にも理解できた。だから旅行者は、ただその様子を見ていることしかできない。そうして将校は自ら服を脱ぎ、自ら処刑機械に横たわり、自ら針を己の体に刻み込もうとする。《正義をなせ》と。

 作動を始めた機械はあちこちきしみ始め、歯車は飛び散り、12時間かけて行う作業をあっという間に将校に施す。この部分の描写は残酷極まりない。将校は体中を針にさし貫かれ絶命する。旅行者は壊れた機械から将校を引き出すと、心ならずも死人の顔を見てしまう。
目は見開かれたまま、生きているようだった。唇は固く結ばれ、視線は物静かにかつ信念をたたえており、額には太い鉄の針が突き立っていた。
 ここまで書いて、僕はひょっとして将校は「絶望」から死を選んだのではない、という気もしてきた。むしろその「信念」に基づいて死んだのではないか、と。
 優れた作品は様々な解釈をもたらしてくれる。現在中年である僕は、高校生の時にこれを読んで最後の展開に戦慄したものである。その時の気持ちは今でもこの話を読み返すと蘇ってくる。文学はあらゆることが可能的だ、と思い始めたきっかけともなった作品だ。

 この後、旅行者は将校の心酔していた前司令官の墓を粗末な喫茶店の床に見つける。墓は人々に踏まれ、将校が言っていたような栄光はそこにはなく、さらには墓碑銘として滑稽とも言える司令官の復活さえもが予言されていた。
 旅行家はどんな思いを持ったのだろうか。
彼はそのまま港へ行き、あとについてきた囚人と兵士二人を振り切り、一人ボートに乗るところでこの話は終わっている。
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なるかみ音海
なるかみ音海 さん本が好き!2級(書評数:24 件)

純文学、SF、古典まで色々読みます。
勢い余って小説投稿サイト「カクヨム」で「ヘビーメタルと文芸少女」http://kakuyomu.jp/works/1177354054882112861という作品でメタル×文芸という新ジャンルを勝手に開拓、掲載しています。ブログもよろしくお願いします。

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