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深読みの楽しさを思う存分満喫できる本だ。 「塵埃と頭髪」のテーマ、シャルルとエンマの相似性など眼からウロコの指摘がてんこ盛りだ。

  • 「ボヴァリー夫人」論 (単行本)
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  • 出版社:筑摩書房
「ボヴァリー夫人」論 (単行本)
サルトルのフローベール論『家の馬鹿息子』に取りかかる前に、蓮實氏のこの大著を紐解いてみたいという誘惑に抗えなかった。
いまさらではあるが、蓮實氏の知識や研究の広さ・深さに舌を巻いた。
深読みの楽しさを思う存分満喫できる本だ。
「塵埃と頭髪」のテーマ、シャルルとエンマの相似性など眼からウロコの指摘がてんこ盛りだ。/


読み始める前、一つの疑問があった。
それは、この『ボヴァリー夫人』という物語は、なぜシャルルの転校から書き始められ、エンマのではなく彼の死で終わっているのかということだ。/


【「頭髪」は、同じ一人の人物によって眺められ、触れられ、においを嗅がれ、そのひと房が切りとられ、その所有に帰すことで、はじめて愛される者の髪の毛として充実した自己同一性におさまる。(略)エンマの死後、シャルルは不意にその感覚の全的な開示に向けてみずからの存在を組織し始める。その匂いに敏感であること、その揺れ動くさまに感じやすくあること、しかも、それに触れるにとどまらず、あえて切りとったひと房を握りしめること。その統合が、いま、シャルルによって決定的なものとなろうとしている。
そのとき、『ボヴァリー夫人』の物語がヒロインの死によっては終わりえない理由を、人はようやくにして理解する。シャルルの自習室への登場で始まったこの物語は、彼自身の退場によってしか終わりえないはずであり、エンマの死はそれを準備するものでしかなかったのだと思いあたるからである。】(本書)/


【(略)「八月のひどく暑い日」(略)に、最後の財産である馬を手放そうと近隣の村に立つ市に出かけたシャルルは、そこでばったりロドルフに出会う。(略)居酒屋へビールを飲みに行った二人は(略)いっときを過ごす。やがて、「私はあなたを恨みはしません」(略)という思いがけない言葉がシャルルの口からもれる。  

 ロドルフは黙っていた。するとシャルルは両手で頭をかかえ、弱々しい声で苦痛に堪えた口調で繰り返した。
「ええ、私はもうあなたを恨んではいません!」
おまけに、シャルルの生涯を通じてのただの一度の名台詞をつけ加えた。
「運命のいたずらです!」(略)(ギュスターヴ・フローベール『ボヴァリー夫人』/山田ジャク訳/河出文庫/2009年/引用者注。)

─中略─

そのとき、ロドルフの反応をめぐって、いくつかの異なる解釈がすぐさま可能となる。そのひとつは、(略)ジャック・ランシエール(略)のように、そこにあからさまなロドルフの敗北を見る視点である。(略)この哲学者は、シャルルとロドルフの出会いの場面をめぐって、「そこでは、すべてを失った夫に対する事態を巧みに操った恋人の優位が、新たな詩学を前にした旧来の詩学の敗北へと逆転している」(略)と書いている。

─中略─

「何故なら、彼[ロドルフ]には、あの貪るような愛というものが理解できなかったからだ」】(本書)/


「運命のいたずらです!」と口にした次の日、シャルルに死が訪れる。

【翌日、シャルルは青葉棚の下のベンチへ行って腰をかけた。日の光が格子のあいだからふりそそぐ。ぶどうの葉は砂利の上に影を描き、素馨(そけい)の花はかおり、空は青く、咲き乱れた百合のまわりに芫菁(はんみょう)が羽音を立てている。そしてシャルルは、そこはかとない恋の香に切ない胸をふくらませ、まるで青年のようにあえいだ。
 七時にベルトが夕飯に呼びに来た。昼過ぎから父親の顔を見ていない。
 父親はあおむけに頭を塀にもたせ、目を閉じ、口をあけて、長い黒髪のひと房を両手に持っていた。
「おとうさま、いらっしゃいな!」 
 そして父親がわざと聞こえないふりをしているのだと思って、ベルトはそっと突いた。彼は地面に倒れた。死んでいた。(略)】(本書/フローベールの前掲書より。)/

見事な美しい文章だ!/


ひょっとすると、愛とはその喪失をも含んだ一つの体験なのかもしれない。
愛した者だけが、堪えがたい痛みとともにはじめて失い得るのではないだろうか?
そこでは、必ずしも愛されることは必要ではないのかもしれない。
そして、やはりここにおいても、シャルルの姿は「純な心」のフェリシテの姿とぴったりと重なって見える。
「フェリシテ(Félicité)」はフランス語で「幸福」「至福」「喜び」を意味する言葉である。
もしかしたら、フローベールは、この憐れな「寝取られ亭主」シャルルのことを幸福な男だと考えていたのかもしれない。/


◯◯夫人について:
世に◯◯夫人と呼ばれる登場人物が描かれている小説は数多いが、その中で僕が読んだことのある数少ない小説の女主人公たちを見てみたい。なんとも薄口で申し訳ないが…

① ボヴァリー夫人(1857年):1840年代の七月王政期のフランス。/

②ダロウェイ夫人(ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』1925年):第一次世界大戦後のロンドン。/

③メグレ夫人(ジョルジュ・シムノン「メグレ警視シリーズ」1931年〜1972年):1930年代から1950年代にかけてのパリ。/

④スワン夫人(オデット)(マルセル・プルースト『失われた時を求めて』1913年〜1927年):19世紀末から第一次世界大戦勃発に至る頃のパリとその近郊。/

⑤モリー『ユリシーズ』(ジェイムズ・ジョイス/1922年):1904年のダブリン。/

年代順に並べると、ボヴァリー夫人→スワン夫人→モリー→ ダロウェイ夫人→ メグレ夫人となる。
役割や描かれ方を見ると、ダロウェイ夫人は女主人・ハウスキーパー的、メグレ夫人は主婦的(従来の日本の主婦的)であるのに対して、元高級娼婦のスワン夫人はサロンの女主人的・女王蜂的で結婚後もなお色香を身に纏い、◯◯夫人でさえないモリーに至ってはあからさまな浮気女である。
前二者には貞淑が価値であるのに対して、後二者は移り気に身を委ねる。
経済的には、歌手としての収入があるモリー以外の三人はほぼ無収入と思われる。
ここで面白いのは、フェミニズム運動の先駆者ウルフの描いたダロウェイ夫人がやや古風な面影をとどめているのに対して、『ユリシーズ』のモリーの女性像の吹っ切れた新しさである。

ボヴァリー夫人は、主婦的な役割から抜け出して愛欲に身を投じた越境者であり、また、ドン・キホーテが騎士道物語を信じて世間から逸脱したように、ロマンス小説のヒロインとして生涯を恋愛に生きてみせたのではないだろうか?
ボヴァリー夫人は、時代が古い分貞淑の掟の締めつけもより強かったと思われ、また、スワン夫人のように男を手玉に取るほどの才覚もなく、経済的にも恵まれておらず、その割には蕩尽が過ぎた。
失恋だけならまだしも、更に経済的な破綻が加わることで、死を選ばざるを得なくなるほどに追い詰められてしまったのだろう。/


【だが、(略)「数字」という点からしても見逃しえないのは、父親の代までは少なくとも「六万フラン」あったはずのボヴァリー家の資産が、結婚した息子の代でほぼ使いつくされているという事実にほかならない。(略)シャルルの死後、「家屋敷いっさいを売り払うと、けっきょく「十二フラン七十五サンチーム」(略)しか残らなかったというのだから、『ボヴァリー夫人』の物語は、(略)ひとつの家族が、親子二代でほぼ「六万フラン」の金を浪費しつくす過程を描いたものだといえる。】

「気をつけよう 甘い言葉とクレカ金貸し!」/


誰の欲望か?
ラカンが言うように《欲望とは他者の欲望である》とすれば、エンマの恋愛に対する強烈な欲望はいったい誰の欲望だったのだろうか?
蓮實は、

【『欲望の現象学』(略)に、「エンマ・ボヴァリーは、彼女の想像力を満たすロマンティークなヒロインたちを通じて欲望する。彼女が少女時代にむさぼり読んだ通俗小説が、彼女のなかのすべての自発的感情を破壊してしまったのだ」(略)と書くルネ・ジラール(略)の見解に与することもむつかしい。】

と書いているが、僕はジラールの見解に賛意を表したい。/


終章で論じられている「めくら」が歌う「小唄」とエンマの最期との因果関係は、なんとも刺激的な説である。今後考えてみたい。/


『ボヴァリー夫人』は、他の訳者のものも含めて全て読んでみたい。
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  • 掲載日:2026/05/23
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