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<title>書評でつながる読書コミュニティ 本が好き! 新着書評</title>
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<modified>2012-05-13T11:18:29Z</modified>
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<name>書評でつながる読書コミュニティ 本が好き!</name>
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<copyright>Copyright (c) 2012, 書評でつながる読書コミュニティ 本が好き!</copyright>
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<title>ナンバー9ドリーム</title>
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<modified>2012-05-13T11:18:29Z</modified>
<issued>2012-05-12T06:57:31+09:00</issued>
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<summary type="text/plain">
詠爾は屋久島を出て、まだ見ぬ父親に会いに行く。東京という眠らない街で詠爾の探索は続く。徐々に蝕まれていく神経。素敵なガールフレンドとの出会い。果たして父親は本当に見つかるのか？　超絶技巧で読ませる一冊。</summary>
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<![CDATA[
A「主人公の三宅詠爾は屋久島を出て東京に上京します。まだ見ぬ父親を探すために。……何て言えばいいのかな。プロットを整理するとこれだけになっちゃうんだけど」<br />
<br />
B「まず、この小説を読む踏み絵になるのが第一章ですね。パン・オプティコンという巨大なビルの中にいる『加藤明子』に何とか接近して父親にまつわる情報を聞き出そうという冒険が三度繰り返されます。つまり三度とも詠爾の妄想だったってことが明らかになります」<br />
<br />
A「妄想というより、この作品のタイトルが示しているように『夢』と受け取ってもいいんじゃないかな。白日夢。まずそこをクリアするのが結構大変なんだけど、その第一章さえ読み終えてしまうと後はスラスラと読めるようになります」<br />
<br />
B「でも、逆に言えば第一章は作者がどれほど想像力に満ちた人物であるかが明らかになると言っても過言ではないですね。暑苦しい東京の、人びとや情報が錯綜するさまを見事に描いています。文章にスピード感があるんだよね。現在形を用いて畳み掛けるように情報をこちらに与えてくる。それでいてスカスカした感じがなく、筆致はむしろ丁寧にその場で起こっている状況を説明していきます」<br />
<br />
A「筆力に満ちた作家という気はするね。村上春樹から多大な影響を受けて、春木へのオマージュとさえ言われているけれど個人的にはもうひとりの村上を連想したけれどね。村上龍。あとは古川日出男あたりにも通じる――古川は村上春樹チルドレンなんだけど――奔放さを感じたかな」<br />
<br />
B「一方では春樹らしさがはっきり残っているのもまた事実で、登場人物が窮地に陥った時に救ってくれるのが女性なんだよね。つまり主人公はモテモテ。このあたりの都合の良さは村上春樹作品と通じるものがありますね」<br />
<br />
A「まあ、先にも言ってしまったように端折ってしまえば父親探しというそれだけの物語です。しかし、それだけのストーリーを読ませるのはひとつには多彩な仕掛けを施しているからというのがるね。手紙、作中内小説、戦時中の日記、そして詠爾が見る夢の描写、といったもの。これがこのシンプルな物語に厚みを加えています。屋久島での姉を亡くすまでのエピソードとか、ドラマティックな回想も読んでいると切なくなる」<br />
<br />
B「あとはリアリティの問題もあるよね。上野駅の遺失物保管所やデリバリのピザ屋などで主人公が働くシーンが出てくるんだけど、細かい部分に配慮が行き届いた描写がされているからリアリティが生じてくる。これもまた情報過多気味に――あるいは神経症的に――様々な要素をぶち込んでみせた著者の力量が伺えます」<br />
<br />
A「あとは暴力シーンの生々しさというのもあるかな。主人公が知り合った人物と関わることでヤクザに脅されて、ボウリング場で生首が露出した状態の男たちにボウリングの球を転がしてぶつけるシーンがあるんだけど、何もそこまで、っていうくらい残酷なシーンになっています。普通はこういう仕掛けは考えつかないと思うよ」<br />
<br />
B「ここでもまた『想像力』というキーワードが生きてくるわけですね。現実における様々な情報の断片をこれでもかとばかり詰め込んで、東京という町を過ごす詠爾の神経を蝕んでいく様子をありありと描いています」<br />
<br />
A「逆に言うと、それが贅肉になっている部分もなくはない。作中内小説とか凝った仕掛けをする前に、もう少しエンターテイメント的に『父親探し』の下りを書き込んでくれれば面白かったかもしれないな、というのが正直な感想です。主人公自身がどこか受け身な印象を受けるというか、様々な場所をたらい回しにされているうちに偶然のように父親が見つかる、という構造になっているから」<br />
<br />
B「その主人公がどちらかと言えば受け身な姿勢なのも、村上春樹作品に似ているところはあると思いますね」<br />
<br />
A「村上春樹との相違も少し書いておこうかな。村上春樹はここまで大胆に現在存在する様々なガジェットを描かないと思う。『IQ84』だって結局はあり得たかもしれない1984年の話で、当時の風俗とかは殆ど描かれないわけでしょう。逆に言うと同時代的なものをガンガン放り込んでいく筆致は、さっきも出てきたけど村上龍に似ている。あとは両親にどう育てられたかという面が出てくるのも気になりますね。村上春樹はある時期までは親の影を殆ど出さない作家だった。父権的なものへの関心が現れるのは『海辺のカフカ』あたりからじゃなかったかな？　まあこれについては書いていくと本当にキリが無くなるんだけど」<br />
<br />
B「村上春樹が考えたプロットを村上龍が調理した、という感じでいいのかな？　とにかく、勢いさえ掴んでしまえば最後のページまで一気に読めるタイプの作品ではありますね。やや長過ぎるのが玉に瑕というか、仕掛けに淫しすぎている点も気にならなくもないんですが、想像力に恵まれたイギリス人が村上春樹を調理してグローバルに通じるようにするとこうなるんだ、というある種の『濃さ』が印象的な作品です」
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<name>蜜蜂いづる</name>
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<title>「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用</title>
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<modified>2012-05-13T09:30:42Z</modified>
<issued>2012-05-01T05:49:42+09:00</issued>
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<summary type="text/plain">
ラカンもクリステヴァも、ドゥルーズもガタリもヴィリリオもみんなインチキだった！？　二人の物理学者が様々な思想家のテクストを読み込み、科学的知識の誤用に対して鋭いツッコミを入れるその筆致がスリリング。</summary>
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<![CDATA[
　それは一本の論文から始まった。アメリカで人気の高いカルチュラル・スタディーズ誌の『ソーシャル・テキスト』誌に「境界を侵犯すること――量子引力の変形解釈学へ 向けて」という長大にして難解な論文が掲載されたのだ。量子力学と相対性理論をポストモダニズムやフェミニズムの問題と搦めて論じたその文章は当然のことながら編集部の査読を経たものだったのだが、やがてこれを書いたアラン・ソーカルはこの論文が実はパロディ論文であったことを告白する。物理学の知識は間違いだらけであり、その他の科学的知識に対しても敢えて粗の目立つ文章を書き連ねそれをデリダだとかラカンとかいった学者の言説を混ぜ合わせただけの、「ナンセンス」な文章でしかないことが明らかになったのである。<br />
<br />
　当然のことながらアメリカの学界では大騒ぎになった。だが、別にこれは質の悪い悪戯というわけではない。アラン・ソーカルはかねてより生半可な科学的知識が哲学者や文芸評論家といった人物（「文系」に属するという――粗雑な言い方になるが――呼び方をすると分かりやすいかもしれない）が振りかざすことで、結果として少なくとも科学的な視点から見れば馬鹿げた戯言を語っているとしか見えない状況について心を痛めていたのだ。本書はそんなソーカルがジャン・ブリクモンと汲んで発表した、科学者としての視点から果敢に行われた思想家批判の書物である。<br />
<br />
　本書はすぐに話題になった。何しろ取り上げられている思想家たちの著名なことといったら。日本でも有名な部類に入る人物で言えばラカン、クリステヴァ、ボードリヤール、ドゥルーズとガタリ、ヴィリリオなどが真っ向から批判されている。トポロジーに代表される数学的知識をその講演や考察の中に散りばめたラカンに対しては無理数と虚数を混同していることがあからさまにされ、「しかし数学的に見て彼の説明は独創的でもないし教育的でもないし、精神分析学との関連を支えるどんな論拠もない」（p.49）とバッサリ斬って捨てる（ラカンの思考は新たな宗教なのではないか、という皮肉さえ書かれる始末だ）。<br />
<br />
　クリステヴァに関しては集合論についての知識の間違いが指摘され、更に「彼女のテクストの真の問題点は、様々な数学の概念が、言語学、文芸批評、政治哲学、精神分析学といった彼女が研究しているはずの分野と適切に関係していることを示すための努力がまったくみられないことだ。われわれの意見では、こうなるのはそのような適切な関係などないという優れた理由のためなのだ」（p.76）と一刀両断される。要するに文芸批評をするにあたってどうして数学的な知識をメタファーとしてさえ持ち出さなければならないのか、というわけだ。<br />
<br />
　ざっとこんな感じで、手厳しく思想家の言説はどんどん否定されていく。私自身物理学や数学の専門家というわけではないのでソーカル／ブリクモンの指摘がどこまで妥当なのかは分からない。ただ、思想家の仕事そのものを全否定するのではなくあくまで科学的に見て間違っているところを細かく指摘していく姿勢は著者たちが大いに自負しているフェアネスに貫かれており、それが本書を読み応えのあるものにしている。<br />
<br />
　著者たちが許せない動機としては、例えこれらの間違いだらけの科学的知識の引用や援用であろうとそれをメタファーとして済ませることに否定的にならざるを得ないというところからも来ている。繰り返しになるが、文芸批評やフェミニズムを論じる際にどうしてわざわざ科学という分野の知識（しかも間違いだらけ）を援用しなくてはならないのか？　それは論文に箔をつけて、知識をひけらかしたいからだけではないのか？　これは日本の思想家の文章にも時折当てはまる部分が大きいのではないか。博覧強記を誇りたいがために膨大な領域からの知識を引用し、理解出来なければそれは分からない読者が悪い、という敷居の高い思想家の文章の中にもこうした「ナンセンス」は存在するのではないだろうか。<br />
<br />
　著者たちはポストモダニズムの潮流として相対主義・懐疑主義がはびこることにも異を唱えている。杜撰に科学を軽視する態度が知的軽薄さ（反・知性主義）を生み出すというのであるこのあたりの記述もまた面白い。科学という分野では理論がどのように練り上げられ、実験等のデータを通して補強されていくのかが事細かく書かれている。科学においては明晰さがまず何よりも求められる。しかし人文の世界ではある程度曖昧であっても許される。あるいは、意図的に難解に書くこともまた許される。だから科学的知識を曖昧なまま振りかざす。これは知的不誠実な態度なのではないのか。事件それ自体、そしてこの本自体も出版されてからだいぶ時間が経つ書物なのだけれど、著者たちの提起した問題はまだまだ色あせていない。
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<name>蜜蜂いづる</name>
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<title>没落する文明</title>
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<modified>2012-05-13T09:33:03Z</modified>
<issued>2012-04-26T08:29:41+09:00</issued>
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<summary type="text/plain">
3.11以降の原発問題やエネルギー危機、低成長時代への突入とテクノロジーの進化／暴走。現在見過ごすことが出来ない問題についてどう取り組むべきか。気鋭の哲学者と科学者が熱く論じ合ったタイムリーな一冊。</summary>
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<![CDATA[
A「ところで、これからの日本ってどうなるんだろうね」<br />
<br />
B「いきなり何の話題なんですか」<br />
<br />
A「いや、3.11から1年以上経ったわけだけど完全に復興したかというとそうでもないというのもあるし、年金問題もあるし、増税は止むを得ない空気になってきているし、少子化は激しいし、若年層の内定率・失業率だって悪化しているわけで……」<br />
<br />
B「でもそういうことを言い出せばキリがないでしょう。どんな時代にだって特有の問題があったし、それを人は乗り越えてきたんだから。……でも、確かに将来が見えないというのは辛いですね」<br />
<br />
A「『没落する文明』は哲学者として論壇でも活躍する萱野稔人と科学者の神里達博による対談集なんだけど、話題はまず3.11から入っていきます。千年に一度と言われた今回の大地震に関して、またはこれから起こり得る地震に対してそのリスクを捉えるかというところから論点が始まる」<br />
<br />
B「地震と連動した富士山噴火のリスクなんて想定してなかったから、このあたりの分析はちょっとショックだったかな。火山灰が降り積もると都市はその機能を失うというシビアな現実はしかし見過ごせないものがあります」<br />
<br />
A「『リスク』は重要なキーワードだよね。科学的に生じる、例えば原発事故で人が被曝するという避けられないリスクが語られる一方で、萱野稔人は権力が生み出す暴力というリスクについて語ります。具体的に言えば国家に代表される統治権力が人々をどう統制するかという話なんだけど……」<br />
<br />
B「日本において国家権力の持つ力はそれほど大したものではないかもしれない、という指摘が面白いですね。その原因のひとつには地震だけではなく噴火や台風などで容易に建造物が壊れたりしたという自然的な条件が、つまり要するに何をどう作っても簡単に壊れちゃうから大々的な建造物を作るという『結果』を目指す方向ではなく絶えず伊勢神宮を作り変えるという、作り続けることが目的になってしまうような『プロセス』を重視する価値観が植え付けられたからというのは面白い指摘です」<br />
<br />
A「そうやってプロセスが重視されるから、トップダウン式の一気に物事を決断するスタイルではなく現場から相互調整を繰り返して――つまりプロセスを重視して――物事を決めることが一般的とされる。つまりリーダーが不在というか、誰かが責任をとって物事を決定するという形での統治権力が生まれ辛いということになる。日本では革命が起こらないのもさっき言った自然現象が全てをチャラにする傾向があるからだし、自然の力の前には国家は無力だという認識があるからどうしても冷めた目で国家を見てしまう、という……」<br />
<br />
B「話題は多岐にわたる本なので要約するのは難しいんだけど、お二人の認識としては3.11以降のエネルギー危機やテクノロジーの問題、そして『没落する』日本について焦点が徐々に絞り込まれて来ます。要するにこれから日本はどういう国になるのかって話になるんだけど……」<br />
<br />
A「石炭や石油に代わるエネルギーというものが一体何なのか、現時点では想像もついていないんだよね。もちろん原子力という選択肢が完全に消えたわけではないかもしれないけれど、制御が難しいのは既に知られている通り。ではどんな代替案があるかで頭を悩ませなければならない」<br />
<br />
B「でも、指摘されているように楽天的に考えればこれは裏返せば環境問題や省エネ問題の解決にも繋がるような話なんだよね。経済的にも過剰に――バブル経済の頃のように――発展するようなことはない低成長時代に移っていくし、これまでの『高度成長』を良しとするメンタリティを捨てて新しい時代に対応出来る価値観を持たないといけない、という話にもなってきます」<br />
<br />
A「増税や年金カットみたいな不利益とどう向き合うか、如何にして再分配するかという話もあるね。避けては通れない。これもまたリスクとどう立ち向かうかという問題になる。萱野氏はそのリスクの問題は国家がマネジメントしていくべきだと指摘している。個々人に自己責任で不利益を負わせるのではなく、国がその重苦をコントロールするべきかという話。具体的にどういう政策を選ぶのかは見えないところがあるけれど、これはナショナリズムの問題を考え続けてきた萱野氏らしい指摘です」<br />
<br />
B「ここまでで随分長い文章になってしまいました。本当に掻い摘んだ紹介しか出来なかったのですが、少子高齢化や金融危機は決して日本だけの問題ではありません。『ポスト石油時代のフロントランナーとして、負の課題に対処する力がこれからの日本の国力の中心になっていくでしょう』という神里さんの指摘通り、今日本に蔓延している問題は先行するどこかの国の解決策を真似て済ませられるような問題ではありません。徒手空拳で立ち向かうしか亡い問題です。それを考えるためのヒントが詰まった本であると言えるでしょう」
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<title>新・現代思想講義　ナショナリズムは悪なのか</title>
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<modified>2012-05-13T09:35:46Z</modified>
<issued>2012-04-23T13:04:26+09:00</issued>
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<summary type="text/plain">
かつて戦争を通過してきた日本にとってナショナリズムとは批判の対象にされるべき存在であった。しかしそんなに単純にナショナリズムを切り捨てても構わないのか。気鋭の論者による挑発的な反・反ナショナリズム論。</summary>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.honzuki.jp/book/status/no68464/index.html">
<![CDATA[
　ナショナリズム。一見すると危険な概念のように思われる。私は思想には疎いので、右翼的な響きをそこに聞き取ってしまう。要するに排除すべきもののように思われる、ということだ。日本なら日本という国を過剰にリスペクトしないで、もっと諸外国と緩やかな交流を結びながら経済圏などを広げていけばいい――あるいはグローバル化が進む昨今では否応なしにそうならざるを得ない――というように考えていた。<br />
<br />
　萱野稔人はそうしたナショナリズムを頭ごなしに否定する思想界の風潮に対して挑発的な異論を提示する。先に述べたように「グローバル化が進むことでナショナリズムがその有効性を失い、より開けた世界が生まれる」という類の言説を非現実的なものとして切って捨てていく。このあたりの筆致はかなり過激だ。これはいわば萱野からの、日本の論壇に対する挑戦状と言ってもいいだろう。<br />
<br />
　まず、現在の日本に生まれつつある新しいナショナリズムについての分析が為されていく。知られるように現代はグローバル化が進み国際的な競争力が問われる時代になっている。単純に言えば企業は海外に生産拠点を持つようになり、あるいは日本に生産拠点を残した場合でもよりコストのかからない外国人労働者を雇う傾向が生まれるということになる。この結果生まれるのは日本人の失業者だ。特に日本は現在大不況の最中にあり、一番しわ寄せを食らっているのは若者ということになるだろう。そこで格差が生まれる。<br />
<br />
　ただ、グローバルな視点から見れば諸外国の安い賃金と日本の安い賃金の間の格差は少ない。少なくとも日本国内における格差の程度から見ればそこまで極端ではない。つまり逆に言えば格差問題は日本国内に限定された問題である、というのが萱野の整理となる。問題が国内の次元で生じているが故に、それはナショナルな次元で解くしかないのだ。萱野がナショナリズムとして問おうとしている問題とはこのようなものである。<br />
<br />
　ただしここには危険な問題が孕まれている。国内の次元で解くべき問題ではあるが、外国人の流入は留まることはない。不可逆なその流れの中で低賃金労働に甘んじる派遣社員・フリーターは排外的な感情を抱いてもおかしくはない。それが（世間で思われているところの悪しき）ナショナリズムとなって噴出してくる。しかしそれに対する反ナショナリズムは有効だろうか？　日本人を守る萱野的なナショナリズムに対抗して、むしろもっとグローバル化を推し進めて外国人の流入を許すこと。それは果たして格差問題を是正することになるのか？　反ナショナリズムが孕むこうした危険な発想に対して、萱野は歯に衣を着せることなく批判を加えていく。<br />
<br />
　本書ではそもそもナショナリズムの母体となる国家とは何かについての考察が進められていく。左翼的な／リベラルな発想からすれば国家とは解体してしまっても差し支えのないものなのかもしれないが、萱野はそれに異を唱える。ネーション（国民／民族）によって成り立った国家が存在する必然としては、例えば犯罪が生じた際にそれを違法とするかどうかという次元の決定をする主体としてその役割を果たすというものがある。<blockquote>国家とは合法的な暴力行使を独占しようとする組織体であり、その根本には、物理的暴力行使を拝啓にしてみずからの決定を社会の中に貫徹しようとする運動がある。「決定を社会のなかに貫徹する」とは、要するに、決定に人びとをしたがわせる、ということだ。（p.97）</blockquote>　ベネディクト・アンダーソンの名著を皮切りに、フーコーやドゥルーズ=ガタリ、ネグリ＆ハート『＜帝国＞』……様々なテクストを参照しながら問題は展開されていくがその手つきは丁寧だ。「ナショナリズムとはどのような問題なのか？」「国家をなくすことはできるか」「私たちはナショナリズムに何を負っているのか？」といった問題が次々と整理されていく。一時期流行った「マルチチュード」という概念――そしてそれはそのままネグリ＆ハートへの批判に繋がっていくのだが――に対する批判は実にスリリングだ。<br />
<br />
　その他にも国民国家の形成と資本主義の関係、フーコーの「規律・訓練」という概念がどのように現実化しているかなど興味は尽きないのだけれど既に長くなってしまった。繰り返しになるが、日本の産業が空洞化し続々と負け組が生まれつつある現在に必要なのはそうした弱者を救済するためのナショナリズムであるという萱野の指摘はその通りだと思う。逆に言えば排外主義を道徳的に否定する反ナショナリズムが国内の貧窮状態を加速させて皮肉にもファシズムを生み出しかねないという逆説も成り立つ。政治におけるナショナリズムと経済におけるナショナリズムが一緒に論じられているせいでやや定義にぶれを感じた部分もないではないのだけれど、それでもなお刺激的な書物であることは間違いない。
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<name>蜜蜂いづる</name>
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<title>死の扉 (創元推理文庫)</title>
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<modified>2012-04-21T13:51:23Z</modified>
<issued>2012-04-20T13:22:11+09:00</issued>
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<summary type="text/plain">
歴史教師にして素人探偵のキャロラス・ディーンとその助手の男の子プリグリーが街で起こった二重殺人に挑む！　派手さはないけれどフェアプレイに則って謎解きを展開してみせる英国ミステリにおける隠れた名作の新訳</summary>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.honzuki.jp/book/status/no62162/index.html">
<![CDATA[
A「さて今回紹介するのはレオ・ブルースの『死の扉』です」<br />
<br />
B「レオ・ブルースという作家についてはあまり知られていないかもしれないけれど、解説によれば植草甚一さんがこの人を日本に紹介したということで、あの目利きの植草さんの紹介というだけでちょっと興味を惹かれてしまいますね。なお、この本は既に邦訳があり訳者はチャンドラーなどでもお馴染みの清水俊二さん。今回刊行されるのは新訳ということになります」<br />
<br />
A「訳し直されるというのは、それだけ古びていない証拠でもあるね。本書は1955年に刊行されたんだけど、実際に読んでみたけれどこれといって引っ掛かりを感じずに読むことが出来た。旧訳と読み比べていないのではっきりしたことは言えないけれど、今から60年近く昔の作品だとは思えないぐらい洗練されたものになっていると思います」<br />
<br />
B「ちょっとその言い方はどうかとも思いますけどね。古き良き時代のミステリ、という香りを私は感じたんですけれど。まだインターネットなんてなかった時代、戦後間もないまだまだ地縁の繋がりが残っていた時代の作品というか」<br />
<br />
A「まあそれに関しては感じ方は様々でしょう。物語はエミリー・パーヴィスという老婦人の元に何人かの人物が現れるところから始まります。パーヴィスは小間物店を営む傍ら、何人かの人々にお金を貸したりあるいは強引に脅し取ろうとしたり、とにかくお金に関してはがめつい人間だった。だから正直な話、すごく嫌われています」<br />
<br />
B「そして犯行の起きた一部始終が書かれます。生真面目な警官のスラッパーが深夜の街をパトロール中に、パーヴィスの家を訪れてみると鍵が開いている。中に入ってみるとパーヴィスは既に殺されていた。それを目撃したスラッパーも撲殺されます」<br />
<br />
A「このあたりを三人称多元視点で（要するに客観的にカメラで撮影したかのように）描いているのがいいんだよね。起きた出来事をそのまま見せることでフェアプレイに徹するという作者の姿勢が伺えます」<br />
<br />
B「そして事件が発覚すると町は大騒ぎになります。で、ここで登場するのが主人公の探偵役キャロラス・ディーン。彼は歴史上の犯罪などの謎を解く研究をした本を出したりしている、パブリック・スクールの歴史教師です。生徒たちはキャロラスならこの事件を解けるだろうって、賭けまでする始末。また、真面目に授業を聴いているのも退屈だから何とかして授業中にキャロラスの注意を今回の事件に向けさせて脱線させようとします」<br />
<br />
A「その中でも取り分け生意気で助手役を務めるのがプリグリーという生徒で、事件はこの二人によって解決されていきます。このプリグリーというキャラクターの立たせ方がなかなか見事というか。このキャロラス探偵の活躍はシリーズ物になっていて、本書が第一作目ということになるんだけど正直なところキャロラスについてはちょっとまだ強く匂う個性が出てきてないきらいがあるかな、とは思う。一方で、気を利かせてちょこまかと捜査に付き合うプリグリーはなかなか印象的なキャラクターです」<br />
<br />
B「主人公を最早先生ではなく名探偵扱いしていますからね。探偵たるものこうあるべきというポリシーも強いし。そう言えば本書には印象的なキャラクターが出てきます。リンブリックっておじさんなんだけど、キャロラスが探偵として捜査していると知った時点でマニアックなミステリの知識を持ち出してミステリ談義を始め出します。素人探偵をこよなくリスペクトしている人です」<br />
<br />
A「このおじさんも凄いキャラクターだよね。さて、本書は最初は地道な聞き込み捜査が主になってくるからその分最初はちょっとかったるいところは否めません。推理が冴えてくるのは後半になってから。しかも容疑者一同を集めてキャロラスが推理を語るシーンになるとその証言の矛盾などが次々に明らかになってきます。実にさり気ないところに伏線を張っていたことが分かる。本当に丁寧に作られた作品だと思います。事件のスケールは小さいけれど、謎が溶けた快感はなかなか」<br />
<br />
B「こういう容疑者を一同に集めるシーンや、先に言った推理小説好きのキャラクターなどを配するところを読むとミステリを書くことに対する批評性を持った作家であることが伺えます。そうした細かなこだわりを楽しみながら読んで下さい」
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<name>蜜蜂いづる</name>
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<title>なにもしてない</title>
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<modified>2012-04-26T00:59:36Z</modified>
<issued>2012-04-18T20:25:31+09:00</issued>
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<summary type="text/plain">
全てはここから始まったと言っても過言ではないだろう。今や日本文学／純文学の世界で孤高の存在となった笙野頼子が、不遇の時代を経てついにその才能を本格的に開花させた記念すべき第一小説集。</summary>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.honzuki.jp/book/status/no67774/index.html">
<![CDATA[
　何かしていなくてはならない。それも生産的なことである何かを。そして何者かであらねばならない。日々を無為に過ごすことは許されない。非生産的であってはならない。……有形無形の圧力がこのような形で日々圧し掛かってくる。そこから逃れることは出来ない。少なくとも逃れてしまっては日常生活を営むことが出来ない。 <br />
<br />
ではどうしたらいいのか。なるべく何もせずに、「なにもしてない」状態を保ちながら生きていくためには。この場合「なにもしてない」ことはむしろ何かをせよという社会への暗黙の抵抗を孕んだスタンスということになるのだろう。具体的に言えばそれは働けという言葉への無言の抵抗であり、女であるのならば子を生めという言葉に対する反抗になる。 <br />
<br />
　野間文芸新人賞を受賞したことで、デビュー以後十年を経過してからようやく刊行された記念すべき最初の作品集である『なにもしてない』はそうした作家の反抗宣言とでも言うべき書物として読むことが出来る。ストーリーとしてはうっかりすると「私小説」と言いたくなってしまうタイプのものだ（だが、後で触れるがこの作品に限らず一般論的に作品が安直に「私小説」と称されることに対しては笙野は厳しい批判を作中で行っていることに留意したい）。 <br />
<br />
　時は昭和天皇即位式の前後。笙野自身と思しき作家がある日接触性湿疹をこじらせる。皮膚が弱いせいもあって手がぱんぱんに腫れ上がる。冷やさなければならないはずの湿疹を自己流の治療で温めていたせいで症状はさらに悪化する。手から腐臭がし始め汁がついてしまうのでものを触るにはポリ袋をはめなければならない。そんな中で主人公は妖精の幻覚を見る。耐えられなくなった主人公は医師のところに行き傷は治る。社会復帰が終わった主人公は自分の郷里である伊勢に帰る。途中で天皇の姿を目撃し、伊勢で、自分の母親と複雑な関係に悩まされる。 <br />
<br />
　ストーリーとしては本当に粗く紹介するとこんな風になってしまう。読み取るべき要素がそれだけ多々私の中から零れ落ちているという状態なのでそれは今後の作品を読み込んでいかなければならないのだろうけれど、母親、夢、あるいは無為に過ごすということを弾劾されること（まさに「なにもしてない」ことに対するプレッシャーが圧し掛かってくること）といった今後の笙野頼子のテーマがここで花開いていることも――もちろん同じ作家が書いているから当然のことなのだけれど――気になったのだったが、個人的にこの作品を読み解くキーワードとしては接触性湿疹というのがまず挙げられるのではないかと思った。 <br />
<br />
　接触性湿疹。すなわち何かに触れることで過敏に反応してしまうということ。自分の外部を取り巻くものに対して、それが自分に直接向けられた敵意ではないとしてもただ「外部」にある「異物」であるということだけで否応なく反応しなければならないということ。これが、安直な読解になるけれど主人公の存在そのものというか、主人公の中に抱え込まれているある種の宿痾のメタファーなのではないかと。外部に対して常に過敏であり続けなければならない感受性は先にも書いた主人公の、批評家がやたらに物語を私小説として分析することへの批判としても現れているように読める。引用してみよう。 <br />
<br />
「文章に私と書けばそれは私と書いた板だったり、一人芝居の人間が自分の鼻を指している言葉だったり、或いは人間のヌイグルミを被ったゴジラの告白の主語だったり、私という名を与えられた一匹の人魚だったり、時には私というビニールパイプ製の漢字一文字を首に見立てて、アンドロイドの体にすげたものだったりする。その私をどうして一通りに論じ、場所を全部読み手の自身の家に設定してしまったりするのだろう」 <br />
<br />
　この箇所を読んだ時は唸らされた。というのは明らかに笙野頼子という人はこうした問題設定をすることで、言葉が自明に通じてしまうことを信じていないことを明らかにしているからである。作品に「私」と書けばそれを作家自身のことだと了解してその裏事情まで忖度して理解出来ることがかつては良い読者の条件だった。その理解出来ることが作品を深いところまで読み込んでいること、文壇（？）の裏事情にまで通じた良く勉強している作家の証だったのだ。それを笙野は否定している。これはもう殆ど哲学の域にまで達していると言えるのではないだろうか。 <br />
<br />
　言葉は必ずしも自明に伝わるものではない……だからそんな感性を持った作家にとって、自明に「なにもしてない」ことをその個人的な事情を全く考慮しない形で「悪」と見做して有形無形のプレッシャーを押し付けてくる世界が酷く暴力的で生き難い世界であることは間違いない。そんな外部から現れてくる暴力に己の身を否応なく晒し、その感じやすさをこそ武器として引き受けること。笙野頼子が『なにもしてない』で表現しているのは、そうした世界に対する毅然としたスタンスであるように感じられる。
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<name>蜜蜂いづる</name>
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<title>生きがいについて</title>
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<modified>2012-04-18T19:21:13Z</modified>
<issued>2012-04-17T08:25:14+09:00</issued>
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「生きがい」とは何だろうか？　自明のようでありながらも実は答えることが難しいこの問いを神谷美恵子はじっくりと欧米の思想や文学の知識に立ち向かうことで解き明かそうとする。全身全霊をかけて難問に挑んだ一作</summary>
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<![CDATA[
　「生きがい」とは何だろうか？　と単純に問いを立ててみることにする。この問いはもっと大きく膨らませることが出来る。すなわち、人は何に生きるための喜びを、それをやっただけの甲斐があったという満足感を見出すのだろう？　と。あるいはそれを為し得たが故に至上の一時を味わい得たと自覚出来るような出来事というのは一体何であろうか、と。もちろんそれは人によって異なることは言うまでもない。しかし人によって異なるものではあれ、多くの場合においては「生きがい」そのものは切実に渇望されるものでありそれがない人生は無意味であると結論付けられる。 <br />
<br />
　神谷美恵子はこの「生きがい」という捉えどころのないけれど切実に人が求めているものに対して丁寧に思考を重ねていく。まず、西欧ではこの「生きがい」に該当する言葉はないという。「こういうことばがあるということは日本人の心の生活のなかで、生きる目的や意味や価値が問題にされて来たことを示すものであろう。たとえそれがあまり深い反省や思索をこめて用いられて来たのではないにせよ、日本人がただ漠然と生の流れに流されて来たのではないことがうかがえる」（p.10）。本書の前半部ではまずこの捉えどころのない「生きがい」という概念を腑分けするところから始められる。 <br />
<br />
　読みどころとしては、欧米の様々な思想や文学の知識をベースにした考察の深さも挙げられ得るだろう。だがしかし、それにも増して著者がハンセン病――本書では一貫して「らい病」と記されるが――患者のための施設で働いていた経歴があることは有名だが、致命的な病に罹ってしまい将来を絶望視したまさに「生きがい」を失ってしまった人たちの姿を目の当たりにした体験の生々しさが本書に更なるリアリティを与えている。 <br />
<br />
　本書が書かれたのは1960年代の話である。今ではハンセン病という言葉はあまり聞かれなくなってしまった。また書かれた時代は日本の成長期とシンクロするところもあっただろう。しかしこうした「生きがい」喪失者の姿の中に、例えば「今」まさに職を失い途方に暮れている人たちの姿を重ね合わせることは出来ないだろうか。何もかも頼れるものはなくなり、何を信じていいか分からなくなり、持っていたものも何もかも失ってしまった。未来を見ても何も希望がないように思われる。そんな中で再び私たちを奮い起こそうとするものがあるとするなら、それは何なのか。 <br />
<br />
　著者の姿勢としては、そのような苦悩を生き切ることが重要であると語っているかのようだ。どこを引用してもいいのだけれど、例えば次のような言葉が心に突き刺さってくる。 <br />
<br />
「苦悩がひとの心の上に及ぼす作用として一般にみとめられるのは、それは反省的思考をうながすという事実である。苦しんでいるとき、精神的エネルギーの多くは行動によって外部に発散されずに、精神の内部に逆流する傾向がある。そこにさまざまの感情や願望や思考の渦がうまれ、ひとはそれに目をむけさせられ、そして自己に対面する。人間が真にものを考えられるようになるのも、自己にめざめるのも、苦悩を通してはじめて真剣に行われる。実存哲学のことばを借りれば、ただ『即自』に生きるのでなく、自己にむかいあって『対自』に生きる人間特有の生存様式がここにはじめて確立される。これこそ苦悩の最大の意味といえよう。この意味で『人間の意識をつくるものは苦悩である』というゲーテのことばは正しい。苦しむことによってひとは初めて人間らしくなるのである」（p.136-137） <br />
<br />
　まず一旦その苦しみを、「自暴自棄によって自殺、犯罪、嗜癖やデカダンス」を通じて闇雲に解消しようとするのではなく、心の底から向き合ってしまうことが大事である。それを一過性のものとしてやり過ごすことだけを考えるのではなく、自らの人生に、あるいは生きていくということそのものについてまわるこの「生きがい」の問題と向き合ってみること。そうすればその苦しみの中に意味があり得ることを学ぶだろう。先にも書いたように本書は大分昔に書かれたものだ。だが問われている問題、抱えなければならない苦しみ自体は普遍的なものであることを知るだろう。 <br />
<br />
　そして、そこから私たちはそれぞれのやり方で「生きがい」を見出すことになる。本書ではキリスト教文化の下で育った神谷のバックグラウンドを反映して例えば宗教的啓示や回心の例が多く引かれているが、もちろんそれだけではなくハンセン病という現実から新たに「生きがい」を見出して再び人生へと復帰していく人たちの実例が、とりわけ彼らの言葉が生々しく記録されていくことになる。彼らが見出したものは恐らく一生色褪せることのない大事な何かに気づくだろう。そして苦しんでいる私たちもまた、私たちなりのやり方で「生きがい」を見出すべく心を新たにさせられるのだ。 <br />
<br />
　もちろんその回復を支えるに当って、行政や福祉の側がもっと柔軟な態度で病める者、苦しむ者を支えなくてはならない。そこにもスポットライトが当てられていることに慎重になりながら読む必要がある。
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<title>SP-2</title>
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<modified>2012-05-12T00:05:25Z</modified>
<issued>2012-03-10T21:10:41+09:00</issued>
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タイに存在する「第二の女性」SP-2の姿を写真と文章の両面から切り取った書物。平沢に多大なインスピレーションを与えたその存在をめぐるこの一冊はファンなら必携だろうし、そうでない人にもなかなか面白い。</summary>
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<![CDATA[
　SP-2とはタイ語から由来する言葉で、日本語に訳するなら「第二の女性」という意味になる。第二とは何を意味するのか？　本書で使われている聊か無粋な言葉――しかし他にニュアンスを上手く伝えられる言葉がないので仕方がないのだが――を援用するなら、「ニューハーフ」という言葉が最も相応しいものになるだろう。つまり、男として生れてしまった人間が性同一性障害によって、改めて選び直したという意味での女性。それがSP-2になる。本書はそんなSP-2と平沢進の極めて私的な交流を、平沢自身が撮影した彼女たちの写真を交えながら語ったノンフィクションである。タイの風俗を生き生きと描いた書物としても読めるし、なかなか表に出て来ることのない生身の平沢を描いたエッセイとしても読める。 <br />
<br />
　多少なりとも平沢作品を耳にした人間にとって、SP-2の存在が如何に平沢にとって重要なのかを知らないとしたらそれはとても悲しいことであると言わなければならない。ソロになってからの作品、取り分け『シム・シティ』以降の作品にはSP-2との出会いが色濃い影響を残していると言っていい。平沢自身は後に、亡くなった九人のSP-2の死を悼む色彩の強いアルバムを製作してさえいるのだからその受けたインパクトの強烈さ、そして彼女たち――と敢えて呼ぼう――への情の深さは只ならぬものがあると言っても過言ではない。その意味では本書はそんな平沢世界を読み解くための重要なガイドブック、として読むことも出来る。ファンなら必読だろう。 <br />
<br />
　……ファンなら必読？　ではファンではない人間は読み逃してもいい本なのか。もちろんそうではない。まず手元にこの大判の本を置いてみて欲しい。そしておもむろに開いてみる。するとそこに映し出されたSP-2の人々の佇まいに思わず息を呑まずにはいられない。本書では至る箇所でSP-2が普通の女性よりもどれほど容姿端麗でその振る舞いが「女性的」であるかが説明されるが、それはこの――平沢自身の撮影による――数々の写真の中に写る、艶やかな笑顔を浮かべた彼女たちの姿を観ることで説得力を以って伝わってくる。それは端的に美しいのだ。大輪の花のように妖しく、一度見たら忘れられないような美麗さをこちらに只ならぬ迫力を備えながら迫り出してくる。女性を超えた女性らしさ、というと乱暴な表現になるが、素人と謙遜する平沢のカメラはしかし確実に彼女たちの本質に肉薄している。 <br />
<br />
　日本で先にも述べた「ニューハーフ」あるいは「オカマ」などと言われる人々とは異なり、タイではSP-2は立派な市民権を持っている。具体的に言うなら単なる酒場などの水商売の世界のみならず、例えば理髪店などでも働くことが出来て（SP-2の美容師のところにはその腕の確かさから予約が殺到するようだ）、必ずしも日本のように差別されて生きることを強いられるような存在ではない。もちろん、タイに差別がないというわけではないだろう。また、女性としての性を全うするため己の身体にまでメスを入れる彼女たちの心理がどこまで「普通」の人々に理解されているかまではなかなか分かり辛いところがある。しかし、こうして読んでみると最初はフリークスとしか思えなかった（失礼！）SP-2というものが、生れるべくして生れた存在であり、かつその魅力が丁寧に語られることで例えば私のような人間に対しては「男であるから男らしく生きること」が何故自明なのかという次元まで揺さぶり尽くすような衝撃を伴ったものとして立ち現れる。彼女たちは、一方では人間離れしているとしか思えない聖なる存在でありながら、もう一方では確実に私たちの隣人なのだと思われてならない。それは大きな収穫だった。 <br />
<br />
　だが、ひとつ疑問が生じる。彼女たちが「女性らしく」生きることはもちろん構わない。しかしその「女性らしさ」とは他でもない女性自身をも抑圧する類のものではないだろうか（当然のことながら性同一性障害は女性の側にも起こり得る。彼女たちは自分が男ではないことに苦悩するのだ）。それを無視した状態で徒に彼女たちの女性性を賛美することは、結局はジェンダーやセクシュアリティの女性性を固めることになってはしまっても、相対化させ解体させたりするような方向には向わないのではないか。一口に言えばつまり、SP-2が女性の模範となってしまえば、その女らしさがノーマルに生きる女性たちを逆に圧迫して「私たちは女性でありながら、女性ではないのに女性らしさを身に付けたSP-2のようにはなれない」と圧力を及ぼす方向に行き着くのではないのか、と。 <br />
<br />
　それに対する有効な意見が本書で見られるかというと難しい。平沢自身は現代を一旦括弧に入れて、もっと本能的な次元での女性性というものまで遡行することによってSP-2の女性らしさと彼女たちがもたらす「治癒的」な効果を説明しようとしている。「おそらく彼女らが女性性の成就において参照しているのは、“女性”あるいは“母”の原始心像のようなものだろう」（p.165）。この説明がどこまで有効なのかまだ初読の段階なので捉えにくいところはあるが――人間の原始的本能と見做されるものが実は近代において捏造された概念に過ぎないという例は多々ある（例えば母性本能など）――ともあれ分かりやすい女性らしさに揺さぶりをかけてくれる刺激的な書物であることは間違いがない。平沢ファンだけではなく、平沢を知りたい人だけでもなく、例えば女性らしさという素朴な概念に疑問を抱いた方は是非手に取って見て欲しい本だと思う。自らが引くギターのリフのように端正な平沢の筆致はそうした心地良い神秘の旅に簡単に私たちを運んでくれる。
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<title>小説作法ABC</title>
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<modified>2012-04-30T11:15:50Z</modified>
<issued>2012-02-18T11:01:32+09:00</issued>
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小説家・島田雅彦が初めて書き下ろした小説指南の書。これを読んで直ちに作家になれるわけではないが、まず何よりも「いま・ここ」で小説を書くとはどういうことなのかその意義を考えたい真面目な方にお薦め。</summary>
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<![CDATA[
　島田雅彦は可能な限り明晰さを以って物事を表現しようとする作家である。<br />
<br />
　作家とは概ねそういうものだ、と言われるかもしれない。何しろ言葉を商売道具としている以上、言葉によって相手を納得させ、説き伏せ、時には笑わせ涙を流させるほどの力を行使することは商売上必然であり当然のことなのではないか、と。<br />
<br />
　しかし。例えばTwitterでよく見られる表現として「クラスタ」というものが存在する。これは雑駁に言ってしまえば、関心を同じくする者同士が繋がり合って出来上がった「塊」を意味するものだ。そこで例えば交わされている言葉は果たして明晰なものだろうか。これはもちろん自戒を込めて書いているのだけれど、明晰ではない、というのが止むを得ない結論として立ち上がってくるのではないだろうか。崩れた言い回し、仲間内でしか通用しないジャーゴン、ただ無闇に積み上げられた知識だけを競い合う閉じた姿勢……しかし重要なのは、にも拘わらずそこでは言葉は一応通じ合っている、ということだ。そこでは閉鎖的であれ、コミュニケーションは成り立っているのだ。<br />
<br />
　そして、それと同じことを例えば日本の文学の世界、あるいは日本という国全体の問題として問い続けることは出来ないだろうかという疑問が湧いてくる。いや、オタク同士の閉じたコミュニケーションと我々のコミュニケーションは違う、といった反論が生じるかもしれない。しかしそれは何を前提として成り立つのだろうか？　せいぜい通じ合っている仲間たちの数の過多の相違（それはそれで、異質な人々の数に応じてコミュニケーションのヴァリエーションは広がってくるので「多様さ」はそれなりに保証されるが）ぐらいにしか根拠を見いだせないのではないだろうか。私たちもまた、「閉じた」言葉遣いの中に留まっているとしたら……？<br />
<br />
　若き頃の島田雅彦はそのような状況に対する反抗として、自らを「ヒコクミン」と称した。ヒコクミンとは非国民に通じる。つまり、「日本」という閉じた、仲間内だけで愛で合う状況から離れる素振りを見せること。自分を「日本」の外に押し出してしまうこと。もっとも、そうは言っても島田雅彦は結局のところは日本人でしかあり得ないのでこの試みはかなりの屈曲を強いられることになる。何しろ日本人なのに日本人ではないと宣言するのだから。その苦闘の痕は作品の中に様々な形で――ある場合には成功し、ある場合には失敗しつつ――記録されている。<br />
<br />
　その島田雅彦がやはり同じく明晰さを念頭において、法政大学で行われた授業をベースに書き下ろしたのがこの『小説作法ABC』である。小説とは何か。それは考えれば考えるほど難しくなる。何しろ定義というものが存在するようなしないようなややこしいものだからだ。例えばケータイ小説は小説だろうか？　アニメなどの二次創作としてネット上で公開される小説は小説と呼んで差し支えのないものだろうか？　答えはもちろん「然り」であろう。定義などないのであれば、それを小説と呼んでしまえば小説であることに変わりはなくなる。この厄介な代物を島田雅彦はどう料理してみせるのか。<br />
<br />
　前半では小説のジャンル分け、ストーリーの展開の方法、描写などの小説の技法のイロハが記されていく。これもまた厳密に語ろうと思えば語りにくい領域のものだ。谷崎潤一郎の描写が優れているからといって誰もが谷崎潤一郎のように書けるわけではないし、また現代の小説の中にいきなり谷崎潤一郎的な描写を導入してもそれが浮かないという保証はない。分かりやすく言えば、料亭の板前の手さばきが優れているからといってそれを観察し、納得し、さて自分で真似てみようとしても無残に終わるだろう。それと同じだ。作品から切り離して技法だけを取り上げるにはどうしても無理が付きまとう。その無理を承知で、しかし改めて現在において小説を書くための最もアクチュアルな方法論を模索していく。それが前半部の展開になる。<br />
<br />
　後半では日本語で物を書くというのがどういうことか、作家になるための動機とは何か、そして島田雅彦がデビューして以降の実体験が生々しく語られていく。前半部で細かく教えられた技法の問題はここでは一旦棚上げされざるを得ない。次元は心構えの問題、「何故」自分は書くのかという問題意識の方へと向かっていくからだ。そんなものどうでもいいじゃないか？　すぐに作家になれる方法を教えて欲しい？　しかしそんなに島田雅彦は甘くない。自分がたまたま立っている場所がどのような歴史の集積の上に生まれたものなのか、どのような世界の激変の上に成り立っているものなのかという問題意識がないところでは、何を書いても自足したまま終わってしまう、という危機感によるものかもしれない。<br />
<br />
　だから、技法だけを単純にマニュアル化された形で教わりたい方にとっては後半部は難しい話として読めるかもしれない。逆に言えば、ある程度までマニュアル化しながらもそのマニュアルに還元出来ない世界の話が後半で展開していくことになる。このあたりが批評家としての（優れた実作かは大抵、優れた批評家である）島田雅彦の良心あるいは教育者魂と呼べるものとして強い特色を成している。ただ小説を書くだけでは飽き足りないと思っている方には是非一読を薦めたい。<br />
<br />
　ただ、小説を書く動機の一つとして「モテたい」が挙げられているのが気になる。私は、書くことは孤独に自分を追い込んでいくことだと思うのでむしろモテることからもっとも遠ざかることこそ小説を書く上での前提条件だと思っているのだが。
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<title>破壊者 (創元推理文庫)</title>
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<modified>2012-02-11T09:21:37Z</modified>
<issued>2012-02-10T19:41:15+09:00</issued>
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浜辺で見つかった女性の全裸死体。そしてその娘はそこから遠く離れた港町で保護される。何故娘は生かされていたのか？　疑わしい俳優や女性の夫たち、男たちの身勝手が次々に炙り出される。じっくり楽しみたい逸品。</summary>
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<![CDATA[
A「舞台はイギリスの南部。ドーバー海峡を望むチャプマンズ入江でひとりの女性の死体が見つかる。名前はケイト。彼女は両手の骨を折られていて、その他傷跡が見つかったことからレイプされたものとして捜査が始まる。どうやら生きている間に沖から流されたものらしい。一体どこからどのようにして？　というのがプロットの一番目の軸になります」<br />
<br />
B「そして、その一方で現場から二十キロ以上離れた港町で三歳になろうとする女の子がひとりでふらふら歩いているところを保護されます。彼女の名前はハナ。捜査を進めるにあたってハナはケイトの子供であることが明かされます。では何故ハナは生きたまま放り出されたのか。ハナの父親でケイトの旦那さんのウィリアムにそのことを告げると、ウィリアムは気が弱いので失神してしまいます」<br />
<br />
A「他にも、第一発見者の子供たちに付き添った俳優を名乗るスティーヴンという男が登場します。こいつがまた面白い奴で――というと不謹慎だけど――子供たちと連れ添っている間ペニスが勃起していたとか、ウィリアムやケイトとは面識があってケイトの自分に向けられる浮気心を嫌ってウィリアムに自分がホモセクシュアル専門の雑誌に掲載されたグラビアを見せたり、そうかといえばプレイボーイ振りを見せたり、と食えない男だったりする。ケイトとの知り合いということもあり、重要人物としてマークされます」<br />
<br />
B「その一方で、ウィリアムもまた容疑者のひとりです。ケイトを調べてみるとどうやらウィリアムは完全にケイトの尻に敷かれていたみたいで、ハナを溺愛する反面ウィリアムとはお金目当てでしか付き合ってなかったんじゃないか？　と思わせる傍証がどんどん出て来ます。ちょっと気の毒と言えば気の毒な人物なんだけど、でも殺意を抱くに値する理由は十分にある」<br />
<br />
A「あとはスティーヴンの友人のアントニーも十分怪しい。スティーヴンとつるんでドラッグやセックスに耽る日々を続ける人物であり、スティーヴン繋がりでケイトと接触していた記録もある。つまり、ネタバレになるかな……重要人物はこの三人になります。さて、誰が犯人なのか、というのが主なプロットです。ミネット・ウォルターズという作家は前々から名前だけは知ってたんだけど、読んでみるのは初めてでした」<br />
<br />
B「とにかく描写が丁寧だよね。主人公のひとりであるニック・イングラムが、結婚詐欺に騙された女性のマギーのところを訪れるくだりでは荒れ果てたかつてのお屋敷の様子が手に取るように伝わってくるし、あとは舞台が舞台だけに船舶が泊まっている海辺の描写も細かい。何気ない証言もディテールが詳細で、思わず読み飛ばしてしまうような破綻が意図的に散りばめられていてそこを警察官が突くところが快感というか」<br />
<br />
A「人物描写も細かいよね。言動がひとつひとつリアリティがあるから、読んでいて『ああ、これってこういう人なんだ』という印象を抱かせやすい。でもそれは単なる先入観の可能性もあったりする。ケイトという人物に関しても、読んでいくうちに『そういうキャラだったの？』と思わず驚かされたりする」<br />
<br />
B「浮気者なようであり、亭主を尻に敷いているようであり、中身のないつまらない女のようであり、でも実は……というような、ね。解説で杉江松恋氏が恩田陸さんとの類似を示唆しているけど、人物描写の確かさという点では似てるかな。恩田さんよりはもう少し手が込んでいるけれど」<br />
<br />
A「逆に言うとそのあたりが少々濃すぎるというか、他の作家が書いたらもっと骨組みだけにしてコンパクトに纏めるかもしれないという印象もあったけどね。その意味では、この小説は一気読み必死ならぬ一気読み禁止の本だと思う。せっかくここまで丁寧に作り上げられた時計細工みたいな本を、一気に味わってしまうのは勿体無いというかな」<br />
<br />
B「私の印象としては、ひとつは男は身勝手だなとつくづく思わされましたね。だって、スティーヴンの女性関係の凄さたるや。友達のガールフレンドを寝とるだけではなく、他にもティーンエイジャーの女の子を口説き落としてたりしてね。これが重要な伏線になるんですけど」<br />
<br />
A「その一方でだから、ニックとマギーのロマンス的な要素が際立ってくるんだよね。人生に本当に絶望してしまっているマギーを何とか立ち直らせようとしながら、それでいて決して押し付けがましくなく動き回るニックの姿はカッコいい、の一言」<br />
<br />
B「ロマンスとしても読めるし、ミステリとしてももちろん一級品。ミネット・ウォルターズという作家をこれまで読んでいなかったことを恥じさせるには十分過ぎる一冊でした」
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