背く子

この著者の他の作品の例にならい、読んで憂鬱になること請け合いのこの作品はそれを超えてもなお、の意義があり、それは子供の視点から得られる「発達」過程の描写で、それは大層フロイディアンなのだが。

この著者の他の作品の例にならい、読んで憂鬱になること請け合いのこの作品はそれを超えてもなお、の意義があり、それは子供の視点から得られる「発達」過程の描写で、それは大層フロイディアンなのだが。

何故今まで思いつかなかったのだろう。この作家をして「エログロの女王」と。それをつくづく気づかせたたのが他ならぬこの作品集。日本のおとぎ話昔話から紡いだ短編はどれも酷くそのエログロ勇名に耐えるものばかり

終りのない日常安住世代二十歳上のユリのエゴ悩み(自分の優位点は何で何をたのみに生きたら自分の個が成立するか)は、乱世育ちの自分にはつまらなく無意味、という二十歳そこそこの世代批判(のみ)が有意義だ。

長く避けていたこの作品は思った通りの展開。面白い部分も無論あるが、さすがにその家父長制無批判ぶりに気分が悪くなる。生憎それが多くの読者に受けたということもわかるがそんなに家父長制的利益におもねられても

これは確かに多くにとって未知の分野である介護への入門書として良書であるとともに、生きるということは通念やステロタイプ一般との個人の闘いである、という著者の実践の記録として読まれるべきだろう。

北極熊の三代に渡るディアスポラを擬して、境界(種、人種、東西イデオロギー)にまつわるもの総て、その来し方行く末を思考する。特に子役が受ける虐待から、癒しのために自伝を書かせる設定はアイロニー効いてます

やはり氏は多少精神障害のケが。それを発症させないのは、それを芸に昇華したからなんだろうけど。まあ作家業の人は多かれ少なかれそういう生活形態を強いられるものとして。尿意様ごめんなさい、というのは名言。

結婚詐欺師みたいな男、と語り手の一人が言っているニシの君は見境がない主体でありながら実は様々な語り手である女子からの性の投射の対象とされる、実はのっぺらぼうな客体。せいぜい云えばグロテスクな霊魂風。

これはかなりの比重が漫画評となっていて、まず漫画を知らない私のような者にもある程度は読める内容、しかも多少は楽しめるが、これ以外読もうという気にはとくにならなかったこの疲れは口語無駄書きが多いからか。

前途があった学生時には見えずにいた障壁は、語り手を女性であるということは世間一般、特にその女が能有りだった時にはどうしようもない落ち度となる、というろくでなしのジェンダー、となって苛む表題作は納得。

ようやく読んだこの作品は噂に違わぬ凄まじい悪意の猛毒てんこ盛り。これ以上ない「真実」を含んでいるからこそヒト笑いして忘れることは出来ない、取り扱い要注意物。遅ればせながら掘り出し物作家に祝杯をここに。

最近分かったが、川上氏の本は読み終わっても処分してはいけない。癒し、という言葉が嫌いな私の、「いやし」を求めるといういやしくあさましい気分に実に応えてくれるのが、氏の作品群、特にエッセイ、なんですね。

この作者の「設定を変えた自己言及」の内容でなければまず読まなかった。通俗が過ぎ。少女信仰・少女を性愛の対象にすることがまかり通ってきた日本という後進性への、犠牲者としての批判するならもう少しきばりや。

アサッテで目指されている地点は室井光広の「おどるでく」と共通点がある。発した瞬間に逃れられない言葉の社会性というものと社会性そのものの持つグロテスクさに怖気をふるって耐える時の身振りがアサッテ。