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「神さまが世界をお造りになったのは最初の一日目ですよね。で、太陽とか、お月さまとか、お星さまは四日目でしょう。だったら世界って、最初の一日目はどうやって光ってたんだろう」(本作登場人物の台詞)

  • レビュアー: さん
  • 本が好き!1級
カラマーゾフの兄弟1
全5巻まとめてのレビューです。フョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキー(1821-1881)の、いわゆる四大小説のうち、複数回読んだことがあるのは、『白痴』(1868年)が3回、そして『悪霊』(1871年)が2回です。『白痴』の回数が多いのは、黒澤明がこれを1951年に映画化したことが大きいです。ナスターシャに原節子、アグラーヤに久我美子、ロゴージンに三船敏郎、そしてなかんずく映画史上最高のムイシュキンを演じた森雅之という当時の日本映画界ではこれ以上は考えられない配役の素晴らしさだけで観る価値があります。黒澤明によると、撮影の間、一日中無垢を体現するムイシュキンを演じていた森雅之は、毎晩酒を飲んで荒れていたそうです。その気持ちはよく分かります。また、この映画は「呪われた」映画でもあり、オリジナルは265分だったそうですが、公開時には松竹は166分まで縮め、この版しか現存していません。映画界では往々にしてこういうことがあるのは残念です。


映画が絡むと、すぐ話が脱線してしまうのは悪い癖です。すいません。ところで、原作の『白痴』を私が好きな本質的な理由は、これが人間中心のドラマであることです。『悪霊』は、これはもうスタヴローギンの悪の魅力に尽きます。『カラマーゾフの兄弟』にも、もちろん同じものを見ることができます。

さて、本作については、ストーリーを紹介しだすと、それだけで相当な長文になってしまいます。ですが、第五巻に収録されている、訳者の亀井郁夫による長文の解題『「父」を「殺した」のはだれか』が、この大長編の構造を丹念に解き明かしていますし、同巻に収録されている同じ著者による『ドストエフスキーの生涯』を読むと、本作は相当の部分にドストエフスキーの実体験が反映していることが分かります。ですから、本作を詳しく理解するためには、そちらを読んでもらった方がいいのは、言うまでもありません。この拙文では、主に私が感じたことを中心に語ることにします。


本作の冒頭には、『著者より』と題する文章があるのですが、これがとても興味深い内容なのです。こんな文章から始まります。

「わたしの主人公アレクセイ・カラマーゾフの一代記を書きはじめるにあたって、あるとまどいを覚えている。それはほかでもない。アレクセイ・カラマーゾフをわたしの主人公と呼んではいるものの、彼がけっして偉大な人物ではないことはわたし自身よくわかっている」

この「偉大な人物ではない」というのを、いささか失礼ですが「(小説の主人公としては)あまり面白くない人物」と置き換えてもいいでしょう。読んでいる間、ずっとそう思っていました。しかし、その理由は次の文を読むと分かります。

「ひとつやっかいなのは、伝記はひとつなのに小説がふたつあるという点である。おまけに、肝心なのはふたつ目のほうときていて、それはつまり、現に今の時代におけるわたしの主人公の行動である。しかるに第一の小説は、すでに13年も前に起った出来事であり、これはもう小説というより、主人公の青春のひとコマをえがいたものにすぎない。
しかしわたしからすると、この第一の小説ぬきですますわけにはどうしてもいかない。そんなことをすれば、第二の小説の大半が分からなくなってしまうからだ」

つまり、本作は二部作の第一作だったということです。ただ、残念ながら本作の完成から日を置かずして、ドストエフスキーは肺動脈破裂により、59歳で世を去ったため、第二作を読むことはできなくなりました。


ここで、主要登場人物を簡単に紹介しておきます。名前は愛称若しくは呼び名で()内が本名です。

◆フョードル(フョードル・パーヴロヴィチ・カラマーゾフ)
カラマーゾフ家の父親。無一文から亡妻たちの財産を利用して、のし上がった地主。悪人で守銭奴だが、無類の女好きで、老齢にもかかわらずグルーシェニカに夢中で、わがものしようとしている。深夜自宅で、来るつもりのないグルーシェニカを待っているところを撲殺される。

◆ミーチャ(ドミートリー・フョードロヴィチ・カラマーゾフ)
フョードルの長男。先妻の子で、金が入れば全部飲み食いに使ってしまうような放蕩息子の退役軍人だが、父親とはどこか一線を画す気性を持つ。カテリーナと婚約していたが、本心はグルーシェンカにある。フョードル殺害容疑で逮捕される。

◆イワン(イワン・フョードロヴィチ・カラマーゾフ)
フョードルの次男。後妻の子で、大学で工学を学んだインテリにして無神論者。

◆アリョーシャ(アレクセイ・フョードロヴィチ・カラマーゾフ)
フョードルの三男。やはり後妻の子で、尊敬する長老のいる修道院で暮らしていたが、長老の死後、修道院を離れる。清純で誰からも好かれる青年だが、ドストエフスキーは『著者より』の中で「こんな地味でとらえどころのない主人公」と書いている。実際に、その通り。

◆スメルジャコフ
カラマーゾフ家の下男。出産直後に死亡した知的障害のある娘の子で、カラマーゾフ家の子供のいない召し使い夫婦に育てられ、料理人となる。父親はフョードルと噂されるが、当人は強く否定している。この点について、はっきりとしたことは作中では述べられていないが、「父親殺し」のテーマ上でも重要な人物。

◆グルーシェニカ(アフラフェーナ)
町の老商人に囲われていた美女。老商人に教えこまれ、商才もあるし、それなりに蓄財もある身となっている。フョードルとミーチャの心をもてあそぶ、はた目からは悪女であり性的にだらしない女と見られている。

◆カテリーナ(カテリーナ・イワノーヴナ・カーチャ)
ペテルブルグの女学校を出た、誇り高き美女。ミーチャに一家の破滅を救われたことがあり、それまで無視していたミーチャと婚約するものの、ミーチャに対する感情は恩義と嫌悪感との板ばさみでかなり複雑なものがある。

◆リーズ(リーザ・ホイフラコーワ)
町の裕福な未亡人の娘。子どもっぽく、愛らしい14歳の少女だが、足が悪く車椅子姿で最初は登場し、アリョーシャに恋をして婚約する。だが、足が治り歩けるようになった時、その本性を現す。

このように並べてみると、ドストエフスキーの過去の作品の登場人物の反映が感じられるキャラクタが多いです。冒頭で、映画『白痴』の話をしましたが、本作のアリョーシャに『白痴』のムイシュキンを、グルーシェニカに同じくナスターシャを、カテリーナに同じくアグラーヤの面影を見出すことは難しくありません。スメルジャコフの狡猾さに『悪霊』のスタヴローギンを感じることもできるでしょう。しかし、反映が感じられても、同じようなキャラクタにはなっていません。

ここで、再び『著者より』から引用します。

「今のご時世、人々に明快さを求めるほうが、かえっておかしいというべきなのだろう」

これは、実は、本作に限らないドストエフスキー作品の最大の魅力ではないかと、私は思っています。その傾向が、本作ではもっとも顕著なようです。実際にわが身を振り返ってみれば、「明快さ」とは無縁の人生を送ってきましたし、それが大半の人間にとっては普通のことではないでしょうか。しかし、小説世界では、そういう「明快さ」を欠き、あちらやこちらに振れ、支離滅裂とも思える心理や行動をとる人間を描くのは、かなり難しいことのように思えます。もう少し単純化した方が、読者にとって「理解」しやすいこともあるでしょう。「なんだか、わけがわからないよ」と読者が途中放棄してしまう危険もあるわけですから。ただし、ドストエフスキーは、その危険を恐れていないようです。要するに、ドストエフスキーは、巧妙なサスペンスを用いて、それを回避しているのです。若い頃読んだ江戸川乱歩のエッセーで、『罪と罰』におけるサスペンスの巧みさをとりあげたものがありましたが、本書では「父親殺し」の経緯と真相解明が、読者を最後まで引っ張ります。その過程で、人間がいかに「明快さ」を欠いた存在であることが明らかになるのです。その点では、リーズの存在もそれを象徴しています。前半で初々しく登場した彼女が、後半で足が治り健常人となってから、まったく違う姿で登場するのに慄然とする人は少なくないでしょう。ですが、それも人間である以上、ありうることなのです。

優れた文学作品には、ストーリーが大切でないとは言いませんが、やはり語り口が重要です。作者の天分が現れるのは、むしろ後者の方でしょう。本作は、やはり傑作です。時間の鞭に耐えて、生き残っている作品には、理由があるものなのです。


さて、最後ですが、なぜフョードルという自分と同じ名前を、カラマーゾフの父親に与えたのでしょうか。これは、おそらく、フョードルという名前が「神の贈りもの」を意味するから使ったのでしょう。ついでですが、ドミートリーは4世紀の聖人デミトリウスから派生したもので、イワンは「神は恵み深い」、アレクセイは「守るもの」という意味があります。つまり、全員神やキリスト教に関係した名前の家族なのです。これに対し、スメルジャコフは「悪臭」という言葉が由来で、いかに彼がカラマーゾフ家で低く見られていたかが分かります。もちろん、フョードル以外の名前を父親に与えても良かったのでしょうが、この名前にしたことによって、ドストエフスキー自身のキリスト教に対する「明快さ」の欠如を率直に打ち出しています。フョードルはアリョーシャにこんなことを言うのですから。

「もしも神さまがぜんぜんいないってことになったら、あの連中、おまえんとこのあの神父たちなんかあの程度じゃすまされなくなるんだぞ。じっさいそうなったら、首をはねられるぐらいじゃ足りない。なにしろ進歩を遅らせているのは、あの連中だからな」

この言葉は、アメリカのキリスト教福音派が、進化論を学校で教えるのを禁止するように主張したという最近の報道を思い起こさせました。なお、本作を最初に読んだのは20代前半で、今回はそれ以来約50年ぶりの再読となったわけですが、この間に大きく変わったのは、私の宗教や信仰や善悪に対する見方です。若い頃は、神を信じるのかというのも興味あるモチーフでしたが、今はもう結論を出しています。ですから、本作でも、そのモチーフを扱っている部分は退屈でした。ドストエフスキー自身はどうだったかと言うと、キリスト教は捨てきれなかったものの、社会主義若しくは社会改革ということについては一定のシンパシーを抱いていたのではないかと思います。訳者の亀山郁夫によると、書かれなかった続編では、アリョーシャは革命家として登場する予定だったそうですから。もちろん、実際に書いた時にそうなっていたかは別の話です。繰り返しになりますが、本来二部作となるはずの作品が未完となったのは、とても残念なことでした。
    • 映画『白痴』より、写真館に飾られているナスターシャの写真を見入るガラスに映るロゴージンとムイシュキン
    • 同映画より、ロゴージン(三船敏郎)とムイシュキン(森雅之)
    • 同映画より、ナスターシャ(原節子)とアグラーヤ(久我美子)
  • 本の評価ポイント本の評価ポイント本の評価ポイント本の評価ポイント本の評価ポイント
  • 掲載日:2025/11/03
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この書評へのコメント

  1. 三太郎2025-11-04 11:12

    黒澤明監督の映画「白痴」見ましたよ。dvdだったかtvだったか忘れましたが、3時間近い映画だったとは思いませんでした。もしかしたら一部しか見ていないのかも。また観たい気がする映画でした。

  2. hacker2025-11-04 14:47

    そうですか。見たことのある人はあまりいないようなので、嬉しいです。黒澤明自身は、この映画を相当気に入っていたようで、なにかのインタビューで、不当に評価された的な愚痴をこぼしていたという記憶もありますが、意に反してバッサリ切られての公開だったこともあるのでしょうね。拙文中でも書きましたが、この映画の森雅之は最高でした。彼は、戦後日本映画を代表する男優の一人だと思います。あと、原節子はもちろん貫禄たっぷりの美女ぶりでしたが、若かりし久我美子が綺麗だったのも、忘れられません。

  3. ゆうちゃん2025-11-04 18:52

    言われてみれば、父親殺しの謎で、読者がこの長編を読み切るように著者が促している、というのはありそうな話ですね。本書はドストエフスキーの普通の長編(だいたい千頁)の1.5倍はあります。それだけで第一部だというのですから、当初の構成としてはどれだけ長いものだったのでしょうか。そうすると、ドストエフスキーはこの第一部無くして未完に終わった第二部は成り立たないというのですから、第一部にミステリ要素を入れて読ませたい、というのはさもありなんと思います。
    ミステリが読者の興味を持たせるための方策、神の存在もそれほど興味を引かないとすると、やはり第一部の存在意義は、狂言回し的存在にすぎないアリョーシャの若かりし頃が主題になるという訳でしょうか。

  4. ゆうちゃん2025-11-04 18:54

    神や善悪は本書でも取り上げられていますが、ここ数年、ヨーロッパの各種文学作品を再読して、改めてこの主題が沢山登場すると感じました。自分はそもそも若い頃に神や善悪には興味を持たず、最近、こうして再読した文学作品に触れて興味を持ち出しました。自分も実は神や善悪については結論を持っていますが、本書の有名な「大審問官」の章には大きく影響されました。

  5. hacker2025-11-04 19:17

    >当初の構成としてはどれだけ長いものだったのでしょうか。

    この第一部だけでも、読み通してみると、じつに綿密に構成されていることに驚き、感心します。ミステリーも顔負けの伏線もたくさん張ってあります。おそらく第二部も同じぐらい綿密に考えられたものになっていただろうと思いますし、そこへ向けての伏線もこの第一部で張られているものがあるかもしれません。

    「大審問官」の章については、拙文でも触れようか少し迷いましたが、個人的に結論がでていることもあり、止めました。

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