hackerさん
レビュアー:
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単なる偶然なのでしょうが、1971年刊の短編集から訳された本書には、スティーヴン・キングの『キャリー』(1974年)に酷似した話『チェネレントラ』(伊語で「シンデレラ」のこと)が収録されています。
東宣出版+訳者・長野徹は、既に『魔法にかかった男』『現代の地獄への旅』『絵物語』『動物奇譚集』と、初訳作品を中心としたディーノ・ブッツアーティ(1906-1972)の短編集を出版しています。ブッツァーティ好きの私としては嬉しい限りで、本書もそういう短編集の一つで、作者が生前編んだ最後の短編集『難しい夜』(1971年)の前半部分26作が収められています。なお、後半部分25作は、既に図書新聞から『怪談の悪夢』として翻訳されており、これで『難しい夜』全作の翻訳がなったと長野徹は「訳者あとがき」で、嬉しそうに(?)述べています。例によって、収録作のうち、特に印象に残るものを紹介します。
●『ババウ』
ババウとは「民間伝承の登場するお化け、化け物。(中略)子どもがだだをこねるときなどに、こどもを怖がらせ、大人が持ち出す」と訳注で説明があります。ブッツアーティ自身による同題の表紙の絵をご覧ください。大きさは違いますが、なまはげのような役割の存在でしょうか。訳者あとがきでは「表題作ほか数篇」については「読者(とりわけブッツァーティの熱心なファンの方々)に拙訳を早く届けなくてはという、紹介者としてのせつなる思いがあった」と語っていますが、それも納得できる、文明の進化と共に失われていく「化け物」に対する共感があふれる傑作です。本作の最後の部分だけ、引用しておきます。
「駆けろ、逃げろ、駆けるのだ、生き残りし幻想よ。あまえを絶滅させたがっている文明社会はおまえを追い立てて、もう二度と安らぎを与えないだろうから」
●『同じこと』
「もう助からないのですか?」
「神の御業には限界はありません、奥さん。ですが、われわれの乏しい科学的知見から言えるのは...やはり、長くて三か月...三か月かと...」
こんな医師と患者の妻との会話から始まる話です。実は、本作ではこういうやり取りが繰り返されるのですが...。
●『塔』
「大侵略の時代に」「最強の武器は奇襲」で「疾風のごとく賭け寄せ、気づかれないうちに町を急襲すること」で恐れられていたサトゥルノ族という移動民族がいました。ある町のジュゼッペという若者は、サトゥルノ族の襲撃を誰よりも早く発見し、町の人間たちに知らせることができるよう、町の北の境界に高い塔を建て、そこで生活することにします。はたして、サトゥルノ族はやって来るのでしょうか。
お分かりのように『タタール人の砂漠』のヴァリエーションです。結末は、同じように悲劇的ですが、同時にコミカルでもあります。
●『名声』
74歳で極度の肥満体のサドーロ伯爵は、ある晩、暴飲暴食が原因で気分が悪くなりました。そのまま寝込んでしまい、「家の者が呼びかけ、体を揺すぶり、顔に水をかけ」ても、意識は戻りません。家族は「医学会の大御所的存在で世界的にもその名が知られる老臨床医」83歳のレブラーニ教授を呼びます。助手に体を支えられながら現れた教授は、脳塞栓で、せいぜいあと一週間の命と見立てます。ところが、翌朝、サドーロ伯爵は、ピンピンして起き出します。どうも単なる酔っ払いだったようなのです。慌てたのは、教授の取り巻きと医学会の権威たち、教授がそんな誤診をしたとなると、ショックのあまり他界してしまう怖れがあるので、しばらくどこにも出かけず重病の振りをしてくれと、サドーロ伯爵とその家族に頼むのでした。
オチは読めますし、コミカルな話ですが、本質的には怖い話です。日本でもよく見られる、名声なり地位を得た者に対する目下の者の勝手な忖度への皮肉が効いています。
●『隠者』
「禁欲、断食、粗食、克己、肉体の苦行の点では」一級の隠者がいました。「にもかかわらず、自分は神の恩寵に浴していないのでないか、という不安を常に抱えて」いました。彼が最終的に採った修行の方法とは...。
内容を紹介するのが難しい話です。ただ、善と悪の表裏一体、善と悪を対立軸として考えることの馬鹿らしさという私好みの題材が中心の話です。
●『チェネレントラ』
題名は、イアリア語で「シンデレラ」の意味です。内容は説明しませんが、スティーヴン・キングの『キャリー』(1974年)に酷似した話です。単なる偶然だとは思いますが、本作を読むと、『キャリー』のキリスト教的背景にも気づかされます。
●『診療所にて』
今や成功した彫刻家となった男が、若い頃から、ずっと心や体の悩みを相談してきた診療所で、診察後に長年の担当医から「きみは死んでいる」(「お前はもう死んでいる」ではありません)と言われます。そして、担当医はその理由を説明します。
「人々は、働き、建設し、新しいことを考え出し、ひたすらあくせくしながら、幸福で満ち足りている。だが、彼らは哀れむべき死人だ。自分がしたいことをし、愛したいものを愛し、信じたいことを信じているのは、ほんの一握りの人々にすぎない。それ以外の者は、まるで西インド諸島のゾンビだ。妖術によってよみがえり、畑仕事に送られる死体だ。それに、彫刻について言えば、かっては得られなかった成功をいま手にしていることこそが、きみが死んでいることの何よりの証拠だ。きみは順応した。自分の居場所を見つけた。時代に順応し、まわりと歩調を合わせるようになった。角がとれて丸くなった。異端者や反逆者や夢想家であることをやめた。だからいま、大衆受けしているんだ。死者の大衆にね」
シニカルな話ですが、文学者であり画家でもあったブッツァーティ自身への戒めを語った作品でしょう。
ブッツァーティの短編は、阿修羅像のように、いくつもの顔があります。全体とすると、不条理と恐怖と幻想と(少なくとカフカやシュルツには見られない)妙な明るさがミックスされた、独特の雰囲気があるのですが、作品によって、そのうちのある要素が強く出ることにより、多彩な世界を作り出しているようです。本書は、そういうブッツァーティの複数の顔を楽しむには、格好の一冊です。ブッツアーティを読んだことにない方にもお勧めできます。
●『ババウ』
ババウとは「民間伝承の登場するお化け、化け物。(中略)子どもがだだをこねるときなどに、こどもを怖がらせ、大人が持ち出す」と訳注で説明があります。ブッツアーティ自身による同題の表紙の絵をご覧ください。大きさは違いますが、なまはげのような役割の存在でしょうか。訳者あとがきでは「表題作ほか数篇」については「読者(とりわけブッツァーティの熱心なファンの方々)に拙訳を早く届けなくてはという、紹介者としてのせつなる思いがあった」と語っていますが、それも納得できる、文明の進化と共に失われていく「化け物」に対する共感があふれる傑作です。本作の最後の部分だけ、引用しておきます。
「駆けろ、逃げろ、駆けるのだ、生き残りし幻想よ。あまえを絶滅させたがっている文明社会はおまえを追い立てて、もう二度と安らぎを与えないだろうから」
●『同じこと』
「もう助からないのですか?」
「神の御業には限界はありません、奥さん。ですが、われわれの乏しい科学的知見から言えるのは...やはり、長くて三か月...三か月かと...」
こんな医師と患者の妻との会話から始まる話です。実は、本作ではこういうやり取りが繰り返されるのですが...。
●『塔』
「大侵略の時代に」「最強の武器は奇襲」で「疾風のごとく賭け寄せ、気づかれないうちに町を急襲すること」で恐れられていたサトゥルノ族という移動民族がいました。ある町のジュゼッペという若者は、サトゥルノ族の襲撃を誰よりも早く発見し、町の人間たちに知らせることができるよう、町の北の境界に高い塔を建て、そこで生活することにします。はたして、サトゥルノ族はやって来るのでしょうか。
お分かりのように『タタール人の砂漠』のヴァリエーションです。結末は、同じように悲劇的ですが、同時にコミカルでもあります。
●『名声』
74歳で極度の肥満体のサドーロ伯爵は、ある晩、暴飲暴食が原因で気分が悪くなりました。そのまま寝込んでしまい、「家の者が呼びかけ、体を揺すぶり、顔に水をかけ」ても、意識は戻りません。家族は「医学会の大御所的存在で世界的にもその名が知られる老臨床医」83歳のレブラーニ教授を呼びます。助手に体を支えられながら現れた教授は、脳塞栓で、せいぜいあと一週間の命と見立てます。ところが、翌朝、サドーロ伯爵は、ピンピンして起き出します。どうも単なる酔っ払いだったようなのです。慌てたのは、教授の取り巻きと医学会の権威たち、教授がそんな誤診をしたとなると、ショックのあまり他界してしまう怖れがあるので、しばらくどこにも出かけず重病の振りをしてくれと、サドーロ伯爵とその家族に頼むのでした。
オチは読めますし、コミカルな話ですが、本質的には怖い話です。日本でもよく見られる、名声なり地位を得た者に対する目下の者の勝手な忖度への皮肉が効いています。
●『隠者』
「禁欲、断食、粗食、克己、肉体の苦行の点では」一級の隠者がいました。「にもかかわらず、自分は神の恩寵に浴していないのでないか、という不安を常に抱えて」いました。彼が最終的に採った修行の方法とは...。
内容を紹介するのが難しい話です。ただ、善と悪の表裏一体、善と悪を対立軸として考えることの馬鹿らしさという私好みの題材が中心の話です。
●『チェネレントラ』
題名は、イアリア語で「シンデレラ」の意味です。内容は説明しませんが、スティーヴン・キングの『キャリー』(1974年)に酷似した話です。単なる偶然だとは思いますが、本作を読むと、『キャリー』のキリスト教的背景にも気づかされます。
●『診療所にて』
今や成功した彫刻家となった男が、若い頃から、ずっと心や体の悩みを相談してきた診療所で、診察後に長年の担当医から「きみは死んでいる」(「お前はもう死んでいる」ではありません)と言われます。そして、担当医はその理由を説明します。
「人々は、働き、建設し、新しいことを考え出し、ひたすらあくせくしながら、幸福で満ち足りている。だが、彼らは哀れむべき死人だ。自分がしたいことをし、愛したいものを愛し、信じたいことを信じているのは、ほんの一握りの人々にすぎない。それ以外の者は、まるで西インド諸島のゾンビだ。妖術によってよみがえり、畑仕事に送られる死体だ。それに、彫刻について言えば、かっては得られなかった成功をいま手にしていることこそが、きみが死んでいることの何よりの証拠だ。きみは順応した。自分の居場所を見つけた。時代に順応し、まわりと歩調を合わせるようになった。角がとれて丸くなった。異端者や反逆者や夢想家であることをやめた。だからいま、大衆受けしているんだ。死者の大衆にね」
シニカルな話ですが、文学者であり画家でもあったブッツァーティ自身への戒めを語った作品でしょう。
ブッツァーティの短編は、阿修羅像のように、いくつもの顔があります。全体とすると、不条理と恐怖と幻想と(少なくとカフカやシュルツには見られない)妙な明るさがミックスされた、独特の雰囲気があるのですが、作品によって、そのうちのある要素が強く出ることにより、多彩な世界を作り出しているようです。本書は、そういうブッツァーティの複数の顔を楽しむには、格好の一冊です。ブッツアーティを読んだことにない方にもお勧めできます。
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「本職」は、本というより映画です。
本を読んでいても、映画好きの視点から、内容を見ていることが多いようです。
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- 出版社:東宣出版
- ページ数:0
- ISBN:9784885881091
- 発売日:2022年12月28日
- 価格:2750円
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