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戦後オーストリアを代表する「詩人」インゲボルク・バッハマンが書いた「小説」集。それは異様に回りくどくてワケが分からない、しかし興味深い産物として成立している。この短編集に貴方はついて来れるだろうか?
非常に評価に苦しむ作品だ。事務的に言ってしまえば七篇の短編(と言うにはやや長いものも目立つが)が収められた書物、ということになるのだろう。だが、読みながらこれを「小説」と呼んでも良いのだろうか、という問いがずっと頭から離れなかった。言うまでもないことだが、「小説」にはそれなりの「お約束」がある。本来なにをどう書いても良いはずの「小説」だが、先人たちが「それはやってはお終いだ」ということで暗黙の内に定めたぼんやりしたルールがある。本書はそれを平然と破っている。だが、それは決してこの詩人が「小説」をナメているからではない。むしろ逆だ。この詩人が文章/散文において言葉遣いに厳密になろうとすればするほど、言葉はそんな暗黙の「お約束」を内破するものとして膨れ上がりひと言で言えばワケが分からないものになってしまうのである。

「詩人」、と敢えて書いた。不勉強にしてインゲボルク・バッハマンの作品は読んだことがなかったのだが(池澤夏樹氏が編んだ世界文学全集の短編集に収められているので一編は確実に読んでいるはずなのだが、全く記憶にないので読んでいないも同然だろう)、『三十歳』は若くして亡くなってしまった戦後オーストリアを代表する「詩人」バッハマンがそれまで得意としていた「詩」から敢えて華麗に「小説」というフィールドに挑んでみせた短編集である。バッハマンの名は以前に書評を書いた『東欧の想像力』で知り、ちょうど岩波文庫に松永美穂氏に拠る新訳が収められたとのことなので手に取ってみることにしたのだった。訳文自体は流石に読みやすいが、しかし本書は難解だ。どういうことか。

ざっくり言ってしまおう。頭の固い人物、前衛的な文学を好まず定型に定まった(つまり前述した「小説」の「お約束」を踏襲した)ものをこそ文学と認める人にはこの作品集は全く合わないだろう。下世話な話をすれば、バッハマンの小説は「ド下手」と言っても良い。一人称と三人称が入り乱れ場合によっては二人称も加わるという叙述スタイルは支離滅裂だろうし、エンターテイメント性にも乏しい。事務的に話のスジを要約してみようとしても全然「ワケが分からない」ものである。表題作は一応「三十歳」を目前に控えた男の苦悩を描いたものなのだが、叙述スタイルは繰り返すがメチャクチャで一応は男女のロマンスらしきものが描かれているようなのだが主眼がはっきりしない。つまりひと口で言えば「なにを表現したいのか分からない」。

こういう作品は、よほどの目利きが選ばない限り一次選考でまず間違いなく落とされる次元の産物だ。私自身本書を「面白い」と万人に胸を張って推薦することは出来ない。いや、スジが面白いとかそういう次元を超えた話をすればこの短編集はなかなか面白いのだが、それを言葉にするには非常に厄介な作業が必要となる。どういうことか。「詩人」が書いた作品であるということに注目しよう。つまり本書は散文詩として、なによりも言葉の使い方それ自体に独自の神秘性を加えて、これもまたざっくり言えば非常にシュールにイメージとイメージをぶつけ合う形で書かれたものとして読めるのだ。それは冒頭の「オーストリアの町での子ども時代」を読めば分かりやすいだろう。タイトルが物語っているようにこの話では一応事務的に整理してしまえば「オーストリアの町での子ども時代」がどういうことかを書いた作品だ。

だがそこで展開されるのは、強力な力を帯びた単語が単語とぶつかり合って非常に抽象的な表現で描かれる世界だ。読みながら、これはもしかしたらオーストリアが経て来た二度の世界大戦が影を落としているのかもしれないな、この箇所はミサイルに拠る爆撃が表現されているのかもしれないな、といった「イメージ」をこちらに立ち昇らせる。「イメージ」である。無作為に選んでみよう。「子どもたちは古い言葉を脱ぎ捨て、新しい言葉を身につける」といった表現が端的に示すように「具体的に」なにを言いたいのか良く分からないけれど、大体曖昧なところではこういうことを表現したいのかなという解釈のゆとりを敢えて持たせた表現が多用される。「詩人」としての資質が如実に現れた一作だ。

日本の作家で似たような資質を持つ人物を強いて(本当に「強いて」)挙げるなら多和田葉子氏の作品がそれに近いと言えるのではないか。そんな作品風土に、上述した二度の世界大戦及びそれに伴うナチズムやホロコーストのトラウマが強烈に刻み込まれたという要素が加わる。もしくは言葉に対する厳密さをどの次元に置くか、という話も加わって来るだろう。それが一番分かりやすいのは「一人のヴィルダームート」という作品だ。この作品ではやけに「真実」に拘る、つまり嘘や曖昧さや誇張を許さない、何処までも厳密に喋ろうとする人物が現れる。難しい話ではない。学校から帰るのが遅くなった理由をあまりにも厳密に語ろうとするために、何処から話せば良いのか……と異様に回りくどくなってしまうクセがついてしまった人物の話だ。

何処から話せば良いのか……例えば「お腹が空いた」場合そう言えば私たちはそれを単純に「ご飯が食べたい」のだな、と受け取るだろう。だが、厳密さを追求すれば「何故お腹が空いたのか」「お腹が空いたとはどういうことを意味しているのか」という次元の話をしなくてはならなくなる。もうこの時点で既に充分過ぎるほど回りくどいが、もっと話を回りくどくすることだって出来る。しかし、私たちはそういう「回りくどさ」を回避してコミュニケートしているのではないだろうか。「小説」で使う言葉にしても然りだ。だと言うのであれば厳密さに拘らざるを得ない「詩人」バッハマンが書く作品はその「回りくどさ」を回避出来ない。逆に、そして酷く単純かつ残酷に言えばバッハマンのこの作品集は回りくどくてワケが分からない。そこがキモなのだ。それを受け容れられるか。

私は不幸にも受け容れられなかった。インゲボルク・バッハマンは日本でも詩集が翻訳されているようだし著名な詩人パウル・ツェランとの往復書簡も邦訳されているようなので、それらを読んでみてから判断してみたい。もうここまでで充分長くなってしまったので切り上げるが、実に手強い作品だ。あらかじめ覚悟した上で臨まれたい。
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踊る猫 さん 本が好き! 1級 (書評数:228 件)

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