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「貧民街」で生まれた「浪曲」を、皇族の御前で演った男!その生涯を曾孫〜岡本和明〜が愛情こめて描いた伝記読み物決定版(帯より)
浪花節は以前好きで何人かのCDを買って聴いてました。しかし、その時は桃中軒雲右衛門のことは知らず、広沢虎造などで内容が清水次郎長や国定忠治などヤクザの話がほとんどで、ヤクザ嫌いの自分としては物足りなく思っていました。「こんなものなのか」として深く追い求めることなく聴くのをやめてしまったのですが、最近、桃中軒雲右衛門のある写真を見て「なんだろう、この顔は」と頭に残ってました。いかにも自信に溢れた生気に満ちた顔・・。現代人の中ではまずお目にかかれない顔だと感じました。

桃中軒雲右衛門・・・・1876(明治9)~1916(大正5)。本名・山本峯吉。師匠・三河家梅車の妻で三味線弾きのお浜とできてしまい、関東にいられなくなって九州へ。そこで政治結社・玄洋社、宮崎滔天、福本日南らと知り合い、彼らの協力を得て「義士伝」など独特の武士道鼓吹の浪花節を完成。それまでの貧民街由来の「寄席芸」として差別されていた浪曲を、一挙に「劇場芸」にまで高めた。「大衆芸能の神様」「浪花節中興の祖」などと称される。(裏表紙のプロフィールより)

浪花節がいつ、どのように作られたのかを石谷華堤「浪花節漫稿」から引いて書いています。『明治の初年、芝の新網に異名坊主こと国松というちょぼくれ(祭文系の門付け芸)がいた。それが毎日自ら三味線を弾いて門付けに出て今日の浪花節を語って歩くうち、ある日、時の東京府知事の私邸で語ったのが縁で知事の愛顧を受け、時々その邸に呼ばれるようになった。知事はいたく国松の芸を好んで、ある時公然鑑札を下附するから一つの組合を組織しろと言われる。〜規定の25人を集めたが、肝心の名前を何とつけるかとなった時、国松が大阪にはこれに似た浮かれ節というものがあると。そこで知事は大阪の節だから浪花節がよかろうと・・・・』

この芝の新網町というのが、当時の東京の下谷万年町、四谷鮫ヶ橋と並ぶ三大貧民窟の一つで、そのために浪花節は蔑まれ、不当な差別を受ける一番の原因となったという。明治の十年代中頃から「箱店」という三方を葦で囲った仮設の小屋での興行が一般的で、落語や講談のような寄席はなかったことも蔑みの対象だったと。このような時に浪花亭駒吉という名人が現れ浪花節を寄席に定着をさせて、浪花節を落語や講談と同等の地位まで引き上げた功労者としています。明治15年(1882)に落語家408人、講釈師324人に対して浪花節は16人。明治の25年に落語家320人、講釈師257人、浪花節139人。それが明治40年には逆転して落語家190人、講釈師120人に対して浪花節448人になる。桃中軒雲右衛門こと山本峯吉はこの時代を生きる、どころかこの躍進を体現する時代の寵児となっていきます。

桃中軒雲右衛門は若手の頃は小繁といい、小繁の特徴は「息が長い」ということだったという。彼は他の人間なら何度も息継ぎをするところを一息で語る。そのために小繁は新しい節を考えていたが、そのためにはいい三味線弾きがいないと出来ないと思う。いろいろ旅もして腕のいい三味線弾きを探すも見つからない。そのうち名古屋の三河屋梅車の妻のお浜がうまいということを聞く。そこで名古屋に行き梅車の弟子となる。お浜も小繁の息の長さとそれによって生まれる独特の節に興味を持ち、稽古をつけるようになる。しかしこのお浜の稽古熱心さが嫉妬深い梅車に疑念を抱かせてしまいます。もともと酒乱の気があって酒を飲むと人が変わり、何度もお浜は怪我を負っています。このことがきっかけで話がもつれ、すったもんだの後に結局お浜は梅車の下を飛び出し、繁吉(小繁)と一緒になります。

しかし、師匠の女房を奪ったということで、東京ではもはや浪花節はできず、その才能に惚れ込んでいた玄洋社の宮崎滔天の引きで九州へと場所を変えていきます。これが小繁のターニングポイントで名前も桃中軒雲右衛門と変えて、当時の世情を読み込む宮崎滔天や玄洋社の新聞記者米永節の方針で『義士伝』に演題を絞っていく事を決める。この『義士伝』が時代の波に乗っていくんです。

当時の世情は日清戦争での勝利にもかかわらずロシア・フランス・ドイツによる三国干渉、とりわけロシアを中心とした干渉で遼東半島を奪われたと理解をした国民の鬱屈したものであり、このことが雲右衛門が唸る例えば『忠臣蔵』赤穂浪士の復讐感情と重なり、一気に人気が高まっていく。またそれまでの下層の人間にしか受け入れられなかった浪花節が、『武士道鼓吹』のテーマを前面に出すことで、上中流の階層の人々に受け入れられるたし、何よりも国威発揚を願う軍部の感情とのマッチングする。

描かれている桃中軒雲右衛門は確かに才能に溢れた人間ですけど、世間に大きく受け入れられたのは世情を見抜いて武士道鼓吹の方針で売り出した玄洋社の米永節の尽力が大だと思われます。雲右衛門は売れるまでは赤貧洗うが如しですが、その時代にお世話になった地元や地方の顔役や興行主への恩を忘れることなく最大限動いたことは立派だと思いました。

また雲右衛門は若い時に子をもうけた女性もいましたが、あまりの貧乏で女性が呆れて出て行きます。そして次の女性・お浜は師匠の女房です。お浜と所帯を持ってから大きく売れていくわけですが、人気者になってから雲右衛門はお玉という女性を囲います。(お浜はよっぽどできた女性なのか、暫くするとこのお玉を自宅に引き取り三人で暮らすようにしていきます)これらのことを雲右衛門が東京進出の時に新聞社多数に大々的に暴かれますが、雲右衛門は相手にしません。あることないことですから弟子たちは怒り、新聞社を訴えるだの抗議だのを言い立てますが、雲右衛門はそうしません。「これは戦なんです。絶対に負ける訳にはいかない戦なんです。もし負けたら俺は浪花節からきっぱりと足を洗う」と宣言し、東京興行を成功させます。

桃中軒雲右衛門の音源はいくつか残っていて、今回一枚借りて聞いてみました。①南部坂後室雪の別れ(忠臣蔵の中の一節)②静御前吉野落でした。残念ながら録音状態はあまり良くなくよく聞き取れずいまいちです。でも桃中軒雲右衛門の背後に玄洋社があったこと、宮崎滔天などの応援があったことは意外な事実でこれ以降の読書の参考になります。
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トンボ玉 さん 本が好き! 1級 (書評数:203 件)

2009年10月から母の介護に関わってきましたが、四月末に母は旅立ちました。暫くはレビューを挙げるのを控えたいと思います。喪に服するというよりも六年以上に渡って内向きに生きてきたので、読書数を減らして運動したりアルバイトでもいいから仕事してそれらに没頭したくなりました。いずれまた参加させていただきます。
2016.5.4(2014.8.10初投稿)
⭐️5・・・買って手元に置いときたい。刺激受けました。
⭐️4・・・読んで良かった。読書の喜びを感じる。
⭐️3・・・ウン、なるほど。参考になりました。
⭐️2・・・感心しません。最後まで読み続けるのを悩む。
⭐️1・・・読めません。基本的にレビューしません。

読んで楽しい: 2票
素晴らしい洞察: 1票
参考になる: 10票
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