アナログ純文さん
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どの作品を取り上げても「絶品」としか言いようがありません。特に何度読んでも感心してしまうのは圧倒的な格調の高さです。なんといいますか漢文脈だからという説明だけでは捉えきれない独特の「キレ」があります。
本短編集にはこの四つの小説が入っています。
『山月記』『名人伝』『弟子』『李陵』
どの作品を取り上げても、「絶品」としか言いようがありません。
特に、何度読んでも感心してしまうのは圧倒的な格調の高さです。
なんといいますか、漢文脈だからという説明だけでは捉えきれない独特の「キレ」があります。例えば『山月記』の中のこんな表現。
ここには、素手でむんずと捕まえて、そのまますばらしい高みまで上り詰めるような、惚れ惚れとする美しさがある様に思います。そしてその一方で、さりげなくすっと胸元に入ってくるしなやかさも。
まさに強弱のコントラストの妙であります。
『弟子』には、孔子とその弟子の「子路」との、とても細やかな交流が描かれています。
主人公の「子路」は、最後に膾のように切り刻まれて死にますが、彼の人間性の根幹を「没利害性」にあると捉えたところに、この小説の読後感の何ともいえない爽やかさと暖かさがあります。珠玉作です。
『名人伝』を今回改めて読んで強く思ったことは、筆者は本作で、かなり確信的に諧謔性を志向したのではないかということでした。(中島敦には初期作品から、あの独特の格調の高さと干渉しあわない諧謔性があります。)
そもそもこういった一芸の達人の話は、尊敬と紙一重のユーモアを持ちますし、それを漢民族的徹底性の中で重層的に語っていくと、そこにはおのずと諧謔が発生します。
そして最後が、老荘思想の「至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし」と来れば、これは「諧謔性」への確信犯でしょう。
読者にいたずらっぽく微笑みかける筆者の顔が、思わず浮かんできそうです。
最後の『李陵』ですが、この中編小説(長めの短編小説)は、筆者の遺稿のひとつであります。
中国の古潭などを「原典」とした幾つかの短編小説を作った後の、あるいはもう一つ上のグレードを目指した力作ではないかと思いますが、原稿は一応の完成を見ながらも、最終稿にまで至っていないのが少し残念です。
(例えばタイトルは、筆者が原稿に走り書きのように書いた幾つかの候補らしいものの中から、生前筆者の知人であった深田久弥氏が選んでいます。)
そのように少し不如意に思うのは、本小説には「李陵・蘇武・司馬遷」三名の生き方が描かれていますが、司馬遷についての描写に、やや全体のトーンと不調和なものを感じるからです。
ただ、その部分は決して不出来なものではなく、全体の調和を乱したとしてもそれに触れずにはいられない、「文学者のあり方と執念」を描きたいという、筆者の強い気持ちがひしひしと伝わってくる部分でもあります。
いわばこの部分こそ、筆者が小説を書き始めた頃から一貫して脳裏にあった、終生変わらないテーマであったのかも知れません。
そのようなことを含め、この未曾有の天才の、わずか三十三年間の生の短さを思いますと、人智ではいかんともしがたい事柄ではありながら、やはりそこに惜しんでも惜しみきれない無念さを感じるのであります。
『山月記』『名人伝』『弟子』『李陵』
どの作品を取り上げても、「絶品」としか言いようがありません。
特に、何度読んでも感心してしまうのは圧倒的な格調の高さです。
なんといいますか、漢文脈だからという説明だけでは捉えきれない独特の「キレ」があります。例えば『山月記』の中のこんな表現。
どうすればいいのだ。己の空費された過去は? 己は堪らなくなる。そういう時、己は、向うの山の頂の巌に上り、空谷に向って吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、彼処で月に向って吼えた。誰かにこの苦しみが分って貰えないかと。しかし、獣どもは己の声を聞いて、唯、懼れ、ひれ伏すばかり。山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮っているとしか考えない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つき易い内心を誰も理解してくれなかったように。己の毛皮が濡れたのは、夜露のためばかりではない。
ここには、素手でむんずと捕まえて、そのまますばらしい高みまで上り詰めるような、惚れ惚れとする美しさがある様に思います。そしてその一方で、さりげなくすっと胸元に入ってくるしなやかさも。
まさに強弱のコントラストの妙であります。
『弟子』には、孔子とその弟子の「子路」との、とても細やかな交流が描かれています。
主人公の「子路」は、最後に膾のように切り刻まれて死にますが、彼の人間性の根幹を「没利害性」にあると捉えたところに、この小説の読後感の何ともいえない爽やかさと暖かさがあります。珠玉作です。
『名人伝』を今回改めて読んで強く思ったことは、筆者は本作で、かなり確信的に諧謔性を志向したのではないかということでした。(中島敦には初期作品から、あの独特の格調の高さと干渉しあわない諧謔性があります。)
そもそもこういった一芸の達人の話は、尊敬と紙一重のユーモアを持ちますし、それを漢民族的徹底性の中で重層的に語っていくと、そこにはおのずと諧謔が発生します。
そして最後が、老荘思想の「至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし」と来れば、これは「諧謔性」への確信犯でしょう。
読者にいたずらっぽく微笑みかける筆者の顔が、思わず浮かんできそうです。
最後の『李陵』ですが、この中編小説(長めの短編小説)は、筆者の遺稿のひとつであります。
中国の古潭などを「原典」とした幾つかの短編小説を作った後の、あるいはもう一つ上のグレードを目指した力作ではないかと思いますが、原稿は一応の完成を見ながらも、最終稿にまで至っていないのが少し残念です。
(例えばタイトルは、筆者が原稿に走り書きのように書いた幾つかの候補らしいものの中から、生前筆者の知人であった深田久弥氏が選んでいます。)
そのように少し不如意に思うのは、本小説には「李陵・蘇武・司馬遷」三名の生き方が描かれていますが、司馬遷についての描写に、やや全体のトーンと不調和なものを感じるからです。
ただ、その部分は決して不出来なものではなく、全体の調和を乱したとしてもそれに触れずにはいられない、「文学者のあり方と執念」を描きたいという、筆者の強い気持ちがひしひしと伝わってくる部分でもあります。
いわばこの部分こそ、筆者が小説を書き始めた頃から一貫して脳裏にあった、終生変わらないテーマであったのかも知れません。
そのようなことを含め、この未曾有の天才の、わずか三十三年間の生の短さを思いますと、人智ではいかんともしがたい事柄ではありながら、やはりそこに惜しんでも惜しみきれない無念さを感じるのであります。
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純文学読み始めはや数十年。病膏肓に入る状態。でも純文学以外が嫌いなわけではありません。
5年ぶりに書評をアップしました。純文学への偏愛は変わりませんが、少し柔軟にアップしていきたいと思います。よろしくお願いします。
この書評へのコメント
- アナログ純文2015-12-15 09:02
カルロスさん、コメントありがとうございます。
私は梶井基次郎も好きなんですが、梶井の作品には意識の混乱は余り見えないような気がします。というか、彼は徹底的に自らの死を凝視した地点から作品を書いていたように思います。もちろんそれこそが天才のなせる技ではありましょうが。
本当に死ぬ間際に、自らの死に対して少し取り乱し母親から指摘を受け、そして従容として死に臨んだという内容の文章(誰の文章だったか失念しました。すみません)を読んだことがあります。
やはり壮絶な生き方だともいえますね。クリックすると、GOOD!と言っているユーザーの一覧を表示します。 - アナログ純文2015-12-15 09:25
星落秋風五丈原さん、コメントありがとうございます。
私も少し前に、マイフェイヴァレット作家である漱石の『それから』を、おそらく20年ぶりくらいに読んだのですが、代助の「パラサイト・シングル」ぶりに少々しらけてしまった印象を持ちました。
もちろん漱石は、そんなふうに感じるであろう読者も織り込み済みで『それから』を書いていたのだと思いますが。
確かに名作と呼ばれる作品群は、漱石のものも中島敦のものも、読んだ年齢ごとのその時の読者の心を強く揺さぶってくるようなエネルギーがありますね。
とんでもない、そして考えようによっては少し「ヘン」な才能のありようですね。
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