もちろんマハさんも参考にした、邦訳決定版ともいえる福田恆存氏訳の岩波文庫版です。当然ながらオーブリー・ビアズレー(マハさんはビアズリーと訳)の挿絵すべて掲載されており、しかも挿絵の目次まで載っています。
よく知られているように、この物語の元となるエピソードは新約聖書の「マルコの福音書」や「マタイの福音書」などに記されています。
ローマ皇帝の庇護のもと強大な権力を持ったユダヤの分封王ヘロデ王と妻のへロディアが催した宴席で「へロディアの娘」(サロメという名は伝えられていない)が七つのヴェイルの踊りを舞い、皆が賞賛したので、ヘロデ王は大いに喜び何でも望みの物を与えると言ったところ、娘は母と相談し、母のへロディアが自分を近親相姦者と批判した預言者ヨハネの斬首を求めた。王は困ったものの約束なので実行した。と記されています。なお、サロメという名は「ユダヤ古代誌」に記されており、それが一般化したとされています。
よってヨハネの首を求めたのはへロディアなのですが、それをワイルドはサロメの狂気の恋ゆえの求めに変えました。
原田マハの「サロメ」に詳しいように、厳格なキリスト教社会の英国では(寵児ではあるが白眼視もされていることもあり)出版することは難しいと考えたオスカー・ワイルドは、パリでフランス語で出版しました。だからヘロデ王はエロド、へロディアはエロディアス、ヨハネはヨカナーンとなっています。
サロメの出自を非難するヨカナーン、興味を惹かれ策を弄してヨカナーンを見るサロメ、強く惹かれるサロメ、その求愛を汚らわしいものとしてにべもなく断るヨカナーン、激しい言葉の応酬の末、あの有名な台詞が飛び出します。
サロメ: あたしはおまえの口に口づけするよ、ヨカナーン。あたしはお前に口づけする。(P36)
(中略)
ヨカナーン:呪ひあれ、近親相姦の母より生まれし娘、お前のうへに呪ひを! (P38)
この後のワイルドの天才的だな、と思うところをあげますと、
・サロメの踊りを細かく指定しない。ト書きがただ一行あるのみ。
サロメ、七つのヴェイルの踊りを踊る。(P72)
・王がサロメの要求に驚き、長台詞で何度も翻意を促すが、サロメは
私にヨカナーンの首をくださいまし。
とだけ繰り返すのみで余計なことは一切言わない。
・そして銀の皿に乗ったヨカナーンの首を見て恍惚としたサロメの長口上。その中のこの台詞。
あゝ!あたしはたうとうお前の口に口づけしたよ、ヨカナーン、お前の口に口づけしたよ。お前の唇(旧漢字)はにがい味がする。血の味なのかい、これは?.....いゝえ、さうではなくてこれは恋の味なのだよ。
・一切無駄のないラストの切れ味の良さ。
(ト書き)一条の月の光がサロメを照しだす。
エロド:(振り返ってサロメを見 )殺せ、あの女を。
この戯曲、最初から最後まで月が不気味で不穏な雰囲気を醸しだしています。そして途中月が赤くなります。昔から月は狂気の象徴で、特に皆既月食の際の「赤い月」は「Blood Moon」と呼ばれます。今年の2月2日、月は「SUPER BLUE BLOOD MOON」でした!
まあそれはさておき、フランス語を英訳したのは同性の恋人アルフレッド・ダグラス、そしてワイルドが挿絵画家に指定したのがオーブリー・ビアズリー、このあたりの経緯をフィクション化したのが原田マハ版「サロメ」です。あまり好評価はしませんでしたが、こうして原典を当たってから再読すると、☆一つ増やしてもいいかなと思いました。
残念なことにワイルドはこの劇を一回も見ることなく他界しました。獄中にいたころに一度上演されたそうでさぞかし残念だったでしょうね。
さて、邦訳の福田恆存の文章も上に挙げた名文をはじめ、さすがの出来栄えです。ただ、テーマとストーリーゆえか、あまり上演されることのないのもこれまた残念。むしろ、リヒャルト・ストラウスの歌劇の方が日本でもはるかに多く上演されています。
その数少ない演劇の中で私が唯一観たのが多部未華子のサロメ(宮本亜門演出、訳は平野啓一郎)。実は私たべちゃんの大ファンなんです(浮気者!という声が聞こえる)。彼女のサロメってぴんと来ないかもしれませんが、実は彼女舞台では凄いんです、壮絶にうまかったですよ。
それが言いたかったのかよ、という声も聞こえてきそうですが、短くも凄い戯曲ですので是非ご一読を。




馬鹿馬鹿しくなったので退会しました。2021/10/8
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この書評へのコメント
- Yasuhiro2018-02-12 09:10
>りゅうちゃん さん
コメントありがとうございます。私の見た劇の翻訳担当は上に書いたように平野啓一郎氏でした。この本はあくまでも台本ですので、このように上演するたびに新しい人が訳してくれればいいですね。
西洋文学を読む限り、聖書とギリシャ・ローマ神話は基礎知識として必要ですね、とは言え、日本人に日常としての基礎知識を求めるのは難しいことも事実です。
もちろん私も完全に理解しているわけではありません。その点、光文社新釈古典文庫は丁寧な説明があっていいです。ここでも翻訳関係の新しい運動を応援する掲示板があるので注目しています。
私の場合、問題はペイパーバックの洋書ですね。今読んでいる小説に「cities of the plain」という語句が出てきて、ちょっと引っかかったので、あとで調べたら、という事がありました。読み逃してるところも多いんでしょう、自戒しなければと思います。クリックすると、GOOD!と言っているユーザーの一覧を表示します。 - かもめ通信2018-02-12 16:10
たべちゃん知らないし、原田版「サロメ」も、オスカー・ワイルドの「サロメ」も読んだことがないのですが、ヨセフスの『ユダヤ古代誌』は結構好きで所々つまみ食いをしています。確かに『ユダヤ古代誌』にはサロメが登場するのですが、こちらは新約聖書の記述とは異なり、洗礼者ヨアンネス(=ヨハネ)の死とサロメ(あるいはその母へロディア)は直接関係がないような記述になっていたり。
上手く言えないのですが、自分が読むだけで得る知識にはどうしても限界がありますが、こうしていろいろな方のレビューを拝見して知るあれこれで、改めて、いままで何気なく読んできたあれこれが線でつながるような気がすることがあります。クリックすると、GOOD!と言っているユーザーの一覧を表示します。 
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- 出版社:岩波書店
- ページ数:104
- ISBN:9784003224526
- 発売日:2000年05月01日
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